「オーストラリア」の名付け親、マシュー・フリンダースとは?波乱万丈の人生を辿る

「オーストラリア」という国名を定着させたのは、イギリスの探検家マシュー・フリンダースです。

メルボルンのフリンダース・ストリート駅、シドニーのフリンダース通りなど、オーストラリアには、マシュー・フリンダースの名前が由来する駅や道路、地域などは今も各地に残っています。

19世紀初頭、彼は猫のトリミーやアボリジナル男性バンガリーとともに、オーストラリア大陸を一周。「ニューホランド(西側)」と「ニューサウスウェールズ(東側)」というバラバラな認識しかなかった土地を、一つの巨大な大陸として確認し、正確な地図を残しました。

しかしその生涯は順風満帆ではなく、探検の後にはフランスでの長い抑留、そして帰国後まもなく訪れる早すぎる死が待ち受けていました。

今回は、そんな彼の並外れた情熱と、運命に翻弄された悲劇の物語、「オーストラリアの名付け親」と呼ばれる彼の波乱の生涯をたどります。

 

生い立ちと海への憧れ

マシュー・フリンダース(Matthew Flinders)は1774年、イギリス・リンカンシャーに生まれました。少年時代に航海記に触れ、世界を探検する夢を抱いた彼は、若くして海軍へと進みます。やがて18世紀末、フリンダースはその運命の舞台となるオーストラリアへと向かうことになります。

初めてのオーストラリア探検

1795年、フリンダースは「リライアンス号」でニューサウスウェールズに到着しました。

ここで以前に彼の航海士仲間だった医師ジョージ・バスと共に小型船ノーフォーク号に乗り込み、シドニー周辺から南の海岸を調査。タスマン海に面する広大な海岸線を探索し、タスマニア島(当時はヴァン・ディーメンズ・ランド)が大陸から離れた独立した島であることを確認したのも彼らでした。

二人の名を冠した「バス海峡(Bass Strait)」は、初期の重要な発見です。

小さな船と大きな夢 — 大陸一周の偉業(1801-1803年)

フリンダースの最大の功績は、1801年から1803年にかけて行ったオーストラリア大陸一周航海です。

彼の航海の主な動機は、イギリス海軍による正確な地理情報の収集という使命感と、科学的な探求心にありました。彼は、航海術だけでなく、自然科学にも深い関心を持ち、この未知の土地の動植物や地形を正確に記録することに情熱を燃やしていました。

1801年、フリンダースはイギリスからわずか300トンほどの小さな船、HMSインベスティゲーター号で出航。現代の豪華客船とは比べ物にならないほど過酷な環境で、彼はアボリジナル男性バンガリーの協力を得ながら、未知の南海岸の詳細な測量に挑みました。

男性バンガリー(Bungaree)は、バンガリーは英語を話すことができ、航海中に出会う先住民との交流を円滑に進める重要な役割を果たしました。

フリンダースの航海は、初期のヨーロッパ人による探検の中でも、先住民との衝突が比較的少なかったとされていますが、それはバンガリーのコミュニケーション能力と外交手腕によるものが大きかったと言えます。彼は、オーストラリアの探検史上、最も重要な協力者の一人で、のちに「イギリスとアボリジナルの架け橋」と呼ばれる存在となりました。フリンダースの航海日誌には「陽気で信頼できる仲間」「先住民との交渉において不可欠な人物」と記されています。

そして、彼の人生を語る上で欠かせない、もう一人の(一匹の)英雄が猫のトリム(Trim)です。トリムは航海の間ずっとフリンダースの傍らにいた忠実な猫で、嵐を生き延び、抑留中もフリンダースとともに島で暮らしました。

フリンダースの探検隊はオーストラリア大陸を一周し、その海岸線を正確に記録。これにより、従来「ニューホランド」「ニューサウスウェールズ」と別々に認識されていた土地が、初めてひとつの大陸として明確に示されたのです。

運命の出会いと悲劇 — 7年間のマッコーリー島での抑留

大陸一周という偉大な探検を成し遂げたフリンダースでしたが、その後の人生は決して順調ではありませんでした。

1803年、帰国の途中で乗船が損傷し、助けを求めて当時のフランス領モーリシャス島に寄港したのですが、この訪問が彼の人生を大きく狂わせます。

時はナポレオン戦争の真っただ中。イギリス海軍の将校であったフリンダースは、フランス総督からスパイと疑われ、捕らえられてしまいます。

彼は自らの航海が純粋な科学目的であることを必死に訴えましたが、聞き入れられず、6年間もの抑留生活を強いられたのです。

その間、妻アンに宛てた手紙には、自由を失った苦しみと、なおも海を目指す情熱が綴られています。

「もし再び解放されるなら、私はもう一度大海を旅したい」
──病を抱えながらも、彼の心は常に海に向かっていました。

フリンダースの情熱は牢獄の壁の中でも消えることはなく、航海で集めた膨大なデータと地図の整理に没頭し、後に発行される航海記録の執筆を進めたのです。

抑留から解放され、ようやくイギリスに帰国を果たしたのは1810年。しかし過酷な年月が彼の体を蝕んでいました。

彼は最後の力を振り絞り、1814年に生涯の集大成となる航海記録『A Voyage to Terra Australis(テラ・アウストラリスへの航海)』を完成させます。

しかし、本の出版からわずかその翌日、フリンダースは40歳の若さでこの世を去りました。

「オーストラリア」という名前

フリンダースは、この新しい大陸全体を指す名称として、古くから使われてきたラテン語の「Terra Australis Incognita(未知の南の土地)」を短縮し、「Australia(オーストラリア)」と呼ぶべきだと主張していました。

フリンダースの死後に刊行された著書『A Voyage to Terra Australis』(1814年)の序文には、次のような一節があります。

“I call the whole island Australia, as being more agreeable to the ear, and an assimilation to the names of the other great portions of the earth.”
(私はこの島全体を「オーストラリア」と呼ぶ。それは耳に心地よく、また他の大陸名と調和しているからだ。)

この言葉からは、単なる地理的な探検を超えて、ひとつの大陸にふさわしい「呼び名」を残そうとした彼の強い思いが伝わってきます。

この名前はすぐに公式に使われたわけではありませんでしたが、彼の本を通じて、この名称が知識人や地図制作者の間に広がり、後の総督ラークラン・マッコーリーがこの名称の採用を推奨したことで、定着していったのです。

現代に残るフリンダースの名

今日、フリンダースの名前はオーストラリア各地に刻まれています。

• メルボルンのフリンダース・ストリート駅
• シドニーのフリンダース通り
• 南オーストラリア州のフリンダース山脈
• フリンダース大学

そして、ニューサウスウェールズ州立図書館(State Library of NSW)のマッコーリー・ストリート(Macquarie Street)側には、彼の功績を称えるフリンダースの像とともに、猫のトリムの銅像が設置されています。

フリンダースは、航海の忠実な仲間だった猫のトリミーについて、「勇敢で小さな冒険者」「最も信頼できる仲間」と小冊子にまとめていて、

記され、単なるペット以上の存在だったことが

おわりに

フリンダースは、自らが提唱した「オーストラリア」という名前が世界に認められていく光景を見ることはできませんでしたが、「オーストラリアの名付け親」として、そして大陸一周の偉業を成し遂げた探検家として、今も歴史に名を残しています。

忠実な猫トリミー、そして共に航海したアボリジナル男性バンガリーの存在と共に語られる彼の物語は、オーストラリアの歴史をより豊かに感じさせてくれるのではないでしょうか。