南オーストラリア州で唯一女性で絞首刑に処されたエリザベス・ウールコック

南オーストラリア州で唯一、女性で絞首刑に処されたエリザベス・ウールコック の人生は、苦難に満ちていました。

彼女は夫を毒殺した罪で有罪判決を受け、1873年に処刑されましたが、冤罪だったと信じている人も多くいます。

この事件は多くの論争を引き起こし、当時の社会状況や法制度の問題点などを浮き彫りにするオーストラリア犯罪史において重要な事件のひとつです。

そんなエリザベスの生涯と事件について、詳しく追ってみました。

 

不遇なエリザベスの人生

現在のオーストラリアでは死刑制度は廃止されていますが、19世紀は普通に行われていました。

南オーストラリア州では、エリザベス・リリアン・ウールコック (Elizabeth Lillian Woolcock 旧姓: Oliver 1848-1873) が唯一の女性処刑者です。

しかし彼女はドメスティックバイオレンスの被害者であり、本当にエリザベスは犯罪を犯したのか?最後の手紙の告白は別の人物によって書かれたのではないか?など、事件には様々な疑問点があります。

エリザベスの生い立ち

エリザベスの両親は、1847年にイギリスのコーンウォールから南オーストラリア植民地にあるブラ (Burra) に移住して来た移民で、彼女もこの地で生まれました。

 

そして1851年になると、オーストラリアでゴールドラッシュが始まります。

ニューサウスウェルズ植民地とビクトリア植民地で金塊が見付かり、たくさんの人たちが一攫千金を夢見て鉱山へ向かいました。

エリザベスの父親も、1852年1月に4歳のエリザベスを連れて、ゴールドラッシュの中心地であるビクトリア植民地のバラバットに移り住みます。

ゴールドラッシュについて

オーストラリアの歴史を語る上では欠かせない重要な出来事であるゴールドラッシュ(Gold Rush) と言えば、ビクトリア州が最も有名ですが、始まりはニューサウスウェルズ州でした。 これによって当時オーストラリア人口が爆発的に増え、後の[…]

 

母親は夫と娘を捨てて南オーストラリア州のアデレードに行ってしまったため、父と娘2人で鉱山付近でのテント生活が始まりました。

 

それだけでも苦労が多かっただろうというのは想像に難くありませんが、1877年に7歳だったエリザベスは、テントをうろつく男性に性的暴行を受けてしまいます。

悲しいことに、その苦難を乗り越えるためにアヘンを処方され、依存していたようです。

 

さらに不幸は続き、その2年後には父親が結核で死亡。

まだ10歳にも満たない彼女は、当時住んでいた家の主人が経営する薬局で働き始めます。それにより薬物を簡単に手に入れられる環境になり、薬の作り方も覚えることが出来ました。

 

15歳になった彼女はバララットの華やかなエリアに移り住み、売春婦たちのライフスタイルに衝撃を受けます。

しかし薬の作り方を知っていたエリザベスは、彼女たちに男性客の飲み物に薬を混ぜ、意識を失っているうちに金目のものを盗むことを思い付き、それで食い繋いでいたようです。

ゴールドラッシュ時のバララットを再現したソブリンヒル

そんな生活でしたが、最終的にエリザベスは南オーストラリア州の牧師に発見され、母親が生きていることを知ります。

母親との再会

エリザベスは母親からの手紙を受け取りました。

手紙には、母親は彼女を置いて行ったことをとても後悔しているので、自分の住んでいる南オーストラリア植民地のヨーク半島にあるムーンタ鉱山で一緒に暮らさないかと書いています。

こうして彼女は1865年に母親のもとへ行き、母親と義父の家に迎え入れられました。

2年間幸せな家庭の中で過ごしたようで、彼らが通っていたウェスリアン教会 (Wesleyan Church) で日曜学校の教師もしています。

 

後にエリザベスの夫となるトーマス・ウールコック (Thomas Woolcock) に出会ったのは、そんな時です。

トーマス・ウールコックと知り合い、結婚

トーマス・ウールコックもエリザベスの両親と同じイギリスのコーンウォール出身者で、1865年に妻と2人の子供と共にムーンタに移住して来ましたが、翌年に妻と息子のひとりを熱病で亡くしていました。

それで、彼は残されたもうひとりの息子の面倒を見てくれる人が必要になり、エリザベスを家政婦として雇ったのです。

ですがエリザベスの義父はトーマスのことが好きではなかったようで、彼女が彼の家に行くことを反対していました。

それでも押し切って家事をしに行っていたエリザベスでしたが、その数週間後にエリザベスがトーマスは仕事以上の関係があるという噂が立ちます。

義父に真意を問われ、エリザベスは否定したものの、信じてもらえません。それどころか「もしこれ以上彼と付き合うなら、お前の足を折るぞ」と脅されました。

 

しかし、その話を聞いたトーマスは、逆に彼女に結婚の話を持ちかけます。

こうして1867年10月2日、20歳だったエリザベスは、知り合ってまだそんなに経っていないトーマスと結婚をしました。(7週間くらいだったとか)

 

そしてエリザベスは、トーマスと一緒に暮らし始めてから彼の本性を知ります。

悲惨な結婚生活

トーマスは酒癖が悪く、妻を平気で殴るような人間でした。

エリザベスは良い妻になろうと努力しましたが、酷い扱いを受け続けます。

夫婦生活が3年ほど経った頃に彼女の母と義父がアデレードに行ってしまってからは更に横暴になり、エリザベスの落ち込みも酷くなっていきました。

何度か自殺を図ってしまったこともありましたが失敗、2度逃げたこともありますが、結局ムーンタに連れ戻されてしまいます。

そんなことがあり、エリザベスは不眠症と鬱を和らげるためにモルヒネを頻繁に欲するようになりました。

薬局が処方を拒否しても「スカートについたインクの染みを落とすため」「髪の毛のフケのため」などと主張してモルヒネの必要性を訴えたり、義理の息子に買いに行かせたりしていたため、彼女が必死に薬を手に入れようとしている行為は近所でも有名になっていきます。

 

ある日、トーマスが自宅に下宿人を受け入れたことがあり、その時は彼の暴力は軽減しました。

ですがそう思ったのも束の間、下宿人とトーマスは口論になり下宿人は出ていってしまいます。

 

事件が起こったのは、その後、間もなくのことでした。

彼らの飼っていた犬が毒殺されたのです。

トーマスは下宿人を疑って警察に通報しています。

 

そして犬の件があった1ヶ月後、トーマスは胃の痛みと吐き気で体調を崩しました。

トーマスを診た3人の医師

トーマスは数週間のうちに3人の医者にかかることになり、それぞれ異なる病気の診断と薬の処方します。

 

最初に呼んだブル医師は喉の痛みに対し、シロップと錠剤を処方。しかし、それは水銀の入った錠剤で、彼の症状は大幅に悪化したのです。

※ 現代は水銀が毒であることは周知の事実ですが、この頃は治療薬として広く使われていました。

それで次にディッキー医師を呼び、今度は胃の不調と診断され、ルバーブの錠剤とクリーム状の酒石を処方。しかし、全く効果はありません。

最終的に、エリザベスはハーバード医師を呼びます。

彼が行ったのは水銀による唾液分泌治療で、これにより症状は軽減し、効果がありました。

しかし2週間後には治療費を払う余裕がなくなったので、ディッキー医師の治療に戻り、胃の不調治療を再開。効果はやはりありません。

エリザベスはブル医師に戻ることも提案しましたが、裁判に出席し後に証言した隣人や友人によると、ウールコックは「ブル医師にはもうかかりたくない。そもそも彼の薬のせいで具合が悪くなった」と言っていたようです。

 

そして看病の甲斐なく、1873年9月4日午前3時、ついにトーマス・ウールコックは亡くなってしまいました。

エリザベスに容疑がかけられ、逮捕

ディッキー医師は当初、死因は過度で長時間の嘔吐と下剤による疲労と診断したのですが、トーマスのいとこ、エリザベス・スネルが、妻がモルヒネを使って毒殺した可能性があると医師に示唆し、その噂が広がります。

その噂を受け、検死審問が行われることになりました。

最初の検死審問はトーマスのコテージで開かれ、ディッキー医師は死者が服用した薬物について証言し、薬剤師のオピー氏はエリザベスがモルヒネを手に入れようとしたことについて証言。エリザベスは夫の死から得るものは何もないと答えています。

 

翌日、ムーンタ裁判所で検死審問が再開され、ディッキー医師が遺体の状態を説明し、水銀中毒の可能性が高いと示唆、ハーバート医師もそれに同意しました。

ブル医師は水銀入りの錠剤を処方したことを認めましたが、トーマスは1錠しか服用しなかったと主張します。

 

警察はトーマスの家に埋めた犬を掘り起こして調べたところ、遺体にも大量の水銀が検出され、毒物が入っていたと見られる瓶もいくつか見付かったと報告。

これによりエリザベスがトーマスを毒殺したと判断され、逮捕されました。

ついに死刑の宣告

この事件はセンセーショナルな事件として大騒ぎになり、アデレードの裁判所がある通りは群衆で埋め尽くされました。

エリザベスは無罪を主張し、彼女に経験の浅い弁護士がつきましたが、敗訴してしまいます。

検察官はエリザベスが犬に毒を盛ったのは実験のためであり、夫を殺害した動機は下宿人との浮気であると言いました。

彼女は明らかにドメスティックバイオレンスの被害者であり、まだ25歳の若い女性であることから、国民から恩赦を求める強い訴えもあったものの、その訴えは当時の植民地総督アンソニー・マスグレイブによって却下され、死刑を宣告をされます。

 

1873年12月30日、白いドレスに花束を持ったエリザベスは、死後に開封される手紙を牧師に渡し、静かに絞首台へ。

しかし、エリザベスの罪の供述と生涯を記したその手紙は、スペルミスや自身の年齢を間違えるなど不正確な記述が目立っていて、本当に本人が書いたものかは分からないとされています。

 

彼女の遺体は、彼女が死刑になった当時のアデレード刑務所 (Adelaide Gaol) の壁の中に安置されており、そこは現在ミュージアムになっています。

機会があれば見に行ってみてはいかがでしょうか。

エリザベスは本当に犯人だったのか?

さて、処刑されたエリザベスは本当に犯人だったのでしょうか?

現在では、エリザベスが浮気をしていた可能性は低いと言われているようです。

彼女が病気のトーマスに対して献身的に世話をしていたことは、彼に床ずれがなかったことからも明らかであり、彼女が夫に対して悪い態度はしていなかったという証言もあります。

犬は、当時は白癬の時によく使われていた水銀入りの粉で治療を受けていて、体についた粉を舐めたことで死亡した可能性があるという説が濃厚です。

トーマスの症状は検死結果では結核と赤痢、腸チフスの症状と一致していたものの、腸チフスは発見されなかったとされましたが、摘出された臓器は検査される前に長時間放置されていたため、診断が不正確だった可能性も考えられます。

裁判では、トーマスが水銀中毒が原因で死亡したことや、エリザベスが毒殺したことは証明されていません。

そして、死の原因として疑わしい水銀入りの薬を処方したブル医師は、自身も薬の中毒者であり、裁判後は精神病院に入院し、その数ヶ月後に自殺しています。

死後恩赦の申請

2009年1月、30年にわたる調査の後、警察史家アラン・ピーターズは州司法長官マイケル・アトキンソンに死後恩赦を申請。

2010年にはピーターズと娘のリーザでコッパーコースト全域とオンラインで請願書を配布し、エリザベスの死後恩赦に署名して支持するよう人々に呼びかけました。

しかし請願書は、却下されています。

 

おわりに

現代では考えられない水銀治療ですが、科学がまだ今ほど発展していなかった時代は、放射能を子供のおもちゃに使ったり、ラジウムを素手で触って舐めたり、なかなか恐ろしいことを色々やってました。

そして冤罪、これは今の時代でも問題になることがありますよね、日本でも。

エリザベスの人生は、幼い時に母親から離れてテントで暮らすという過酷な状況からスタートし、それは現在の私たちの感覚では想像するのも難しいです。

ちなみに、このエリザベスの話は、店名が彼女に由来するという『Lady Burra Brewhouse』というブリュワリーを知ったことから、私のリサーチが始まりました。

次にアデレードに行ったら、ぜひこのブリュワリーと、旧アデレード刑務所を訪ねてみたいと思います。