ビクトリア州は面積こそ他州に比べて狭いですが、19世期にはゴールドラッシュの中心地であり、様々な興味深い歴史が残されていますし、州都メルボルンは多国籍でおしゃれな町として留学生や旅行者に人気があります。
しかし、そんな町も200年ほど前には存在せず、1788年1月にイギリスによる植民地支配が始まったオーストラリアの土地は、まだヨーロッパ人が足を踏み入れた事がない未開の土地として認識されていました。まずニューサウスウェルズ植民地の建設が始まり、現在のビクトリア州に初めてヨーロッパ人が開拓を試みたのは1804年になってからです。
ビクトリア州で最初の開拓地になったのは、メルボルン市内から南西へ約70km の場所にあるモーニントン半島のポートフィリップベイ (Port Phillip Bay) だったのですが、その土地は1年も満たないうちに住むのには適していないと判断され放棄されました。
それがビクトリア州における歴史の始まりです。
最初のビクトリア州開拓地はモーニントン半島だった
モーニントン半島 (Mornington Peninsula) は、現在メルボルンから日帰りで行ける観光地としてとても人気がある場所ですが、もともとワタワルング族 (Wathaurong)、ブーンワルーマ族 (Boonwurrung / Bunurong)、ウルンジェリ族 (Wurundjeri) が暮らしていた土地でした。
この半島に初めて上陸したヨーロッパ人は、1802年にレディネルソン号で訪れたイギリスの探検家ジョン・マレー (John Murray) だと言われていて、その数週間後には同じくイギリス探検家マシュー・フリンダース (Matthew Flinders) もインベスティゲーター号でこの地に来ています。
その時に探索された湾は、マレーによって当時ニューサウスウェルズ植民地3代目総督だったフィリップ・ギドリー・キング (Philip Gidley King) の名にちなんで “ポートキング” と名付けられた後、キング総督自身が前任者であるアーサー・フィリップに敬意を表し “ポートフィリップ” と変更されています。
現在のポートフィリップ
そしてその1年後、このポートフィリップの地で新しい開拓地を作る計画が実行されました。
新しい開拓地建設の計画
その頃、キング総督は安定しないニューサウスウェルズの食糧や資源の不足などを懸念していて、次々とシドニーに送られて来る囚人たちを、一時的にでもどこか他の場所へ送るべきだと考えていました。
そんな折にマレーやフリンダースのポートフィリップ探索の結果を聞き、さっそく彼はイギリス政府に手紙で囚人たちをシドニーではなくポートフィリップに送り、そこに新しい開拓地を作る事を提案します。
当時のイギリス政府は、フランスがイギリスよりも先にオーストラリアの土地を占領される事を恐れていて、ポートフィリップはフランスと戦争になってもフランス側が基地を作る事を阻止出来る位置だった事、そして捕鯨産業にも最適な場所である可能性が高い事などから、その提案は受け入れられました。
デビッド・コリンズ (Wikipedia Commons)
そのポートフィリップへ行く船の指揮官及び新しい開拓地責任者として、ホバート卿により任命されたのがデビッド・コリンズ (David Collins 1756 – 1810) です。彼は後にタスマニア植民地の初代総督となる人物でもあります。
失敗で終わったポートフィリップ開拓地
こうして1803年4月27日、イングランドの港からコリンズの率いる2隻の船、カルカッタ号とオーシャン号 (HMS Calcutta & Ocean) がオーストラリアのポートフィリップに向けて出航しました。
船に乗っていたのは、政府関係者5人、海兵隊9人、その妻子5人と子供1人、楽隊2人、自由移民39人、有罪判決を受けた人々307人、その妻17人と子供7人を含む計402人です。
しかし、結果的にこの新しい開拓地計画は、数カ月で失敗で終わります。
Map of Sullivan Bay,Victoria (Wikipedia Commons)
10月7日にオーシャン号が先にポートフィリップに入り、その2日後にカルカッタ号も到着。4日ほど半島を調査した結果、現在のソレント近くにあたるサリバン湾 (Sullivan Bay) が拠点として選ばれました。サリバン湾は、当時イギリスの植民地や戦争を統括していた次官、ジョン・サリバンから付けられた名前です。
そこにテントを張り、翌日には連れて来た家畜 (牛、羊、豚、山羊、鴨、鶏など) も陸に下され、16日には囚人や海兵隊たちなども下船。少人数の調査班たちは、2隻のボートで北西の探索を開始しました。
新しい開拓地で迎えた10月25日のイギリス国王ジョージ3世の誕生祭は、イギリス国旗を掲げて空中に銃弾が撃って祝われ、11月25日には新しい開拓地最初の子供が産まれたり、11月28日に囚人男性と彼について来た女性の結婚式も行われたりしています。
こうして人々の新たな生活が始まったわけですが、それは決して順調には進みませんでした。
先住民との衝突や水の不足の問題
問題は色々ありました。
調査班が現在のジーロン付近にあるコライオ湾 (Corio Bay) 周辺の探索を行なっていた際、大勢のワタワルング族による攻撃を受け、やむを得ず銃を発砲して死人を出すという事件が起こっています。 (諸説あり)
そして、コリンズの最も重要な任務は新しい開拓地で飲み水を確保する事と建築に必要な木材や作物を育てる土壌を見付けるという事でしたが、それは果たせそうにありませんでした。
この土地は一見豊かそうに見えるものの、大部分の土壌は砂質で湿地も多く木も痩せていて、何よりも水の確保が困難であるという調査結果が出て、コリンズは失望します。
しかし実際のところ、モーニントン半島には川が流れているので、もっと念入りに探せば見付けられたかもしれません。後世の人たちはしばしばそんな彼の調査不足を批判しますが、彼としてはポートフィリップを早々に諦め、一刻も早く他の場所へ移動したかったようです。
タスマニアに移動する
コリンズはニューサウスウェルズのキング総督に宛てて、ポートフィリップの現状報告とバン・ディーメンズランド (Van Diemen’s Land)、つまり現在のタスマニアへ移動したいという趣旨の手紙を書きました。
その手紙はポートフィリップの囚人により船でポートジャクソン (現在のシドニー・ロックス) に届けられ、その意向は承諾されます。
こうしてレディネルソン号の支援を受けながら、1804年1月と5月に分けて一行はポートフィリップの開拓地を去り、バス海峡を越えてバン・ディーメンズランドへ移動しました。
ポートフィリップがあった辺りは、現在では人気観光地です
放棄されたポートフィリップの開拓地は、1810年代から1820年代にかけてバン・ディーメンズランドから南オーストラリア州を通る捕鯨船やアザラシ猟の船が定期的に訪れるくらいで、1835年まで特に何も変わりませんでした。
1826年にはメルボルンから南東約110km にあるコリネラ (Corinella) 付近でも新しい開拓地を作ろうという試みがありましたが、そちらも数カ月で挫折しています。
次にビクトリア州の土地に開拓者がやって来るのは1835年になってからで、バン・ディーメンズランドのジョン・バットマン (John Batman) らが現在のメルボルンの土地に目を付け、それによってメルボルンの町が発展していくのですが、それはまた別の話になります。
先住民として生きた白人男性もいた
ところで、船がバン・ディーメンズランドに向けて出航する前に、逃げ出した囚人たちもいました。
大概は連れ戻されたり何かしらのトラブルに巻き込まれて生き残る事は難しかったようですが、ウイリアム・バックレー (William Buckley) という男性は、先住民と共に暮して生き延びています。
ウイリアム・バックレー (Wikipedia Commons)
彼は32年間先住民たちと一緒に洞窟に住み、1835年にジョン・バットマンに発見された時には、英語をほぼ忘れてしまっていたらしいです。
そんな数奇な人生を送った人もいたのですね。
当時の開拓地跡を見に行こう
ポートフィリップの開拓地があった場所は、現在コリンズ・セトルメント (Collins Settlement) という歴史サイトになっています。
開拓地だった期間が短かったので住居の跡などはほとんど残っていませんが、所々に説明の看板が建てられていて、美しい海を見ながら当時の開拓地があった場所を歩く事が出来ます。
モーニントン半島に行った際に、訪ねてみるのも良いかもしれませんね。
おわりに
今でこそ美しいビーチやワイナリーで知られる人気の観光地モーニントン半島ですが、そんな豊かな自然とは裏腹に、昔はこの地で苦労した人々がいました。
そんな時代の軌跡を辿るのも観光の醍醐味かもしれません。
(参考: History of Melbourne / A SHORT HISTORY OF MELBOURNE, VICTORIA, AUSTRALIA / History of Melbourne – Wikipedia / History of Victoria – Wikipedia / Port Phillip – Wikipedia / First years at Port Phillip : preceded by a summary of historical events from 1768 / by Robert Douglass Boys.)