オーストラリアの流刑囚たちが創った未来

オーストラリアの流刑囚たちが創った未来

「オーストラリアって囚人が先祖の国だろ。」と言ってくる人がたまにいます。

確かにそうなんですが、私はその言葉に対してとても微妙な気持ちになってしまう事が多いです。(昔、それでmixiで口論になった事もあります。)

でもそれは、私がオーストラリア初期の囚人に対してわりと好意的な目で見ているからかもしれません。何しろオーストラリアの基礎を築いた人たちですしね。

という事で、今回は流刑地としてスタートしたオーストラリアの歴史を詳しくまとめてみました。

 

スポンサーリンク Advertisement

オーストラリア人とは誰?

まず、あなたが指すオーストラリア人とはどういう人でしょうか?真っ先に独特の訛りのある白人を思い浮かべる人が多いかもしれません。

でも、現在で4人に1人が外国生まれと言われるこの国では、ひと言でオーストラリア人と言っても色んな人種が存在します。

最近になってオーストラリアは「これ以上移民を受け入れたくない」と言い出したので、長期滞在のビザ取得はかなり条件が厳しくなっていますが、これまで多くの移民を受け入れて来ています。

オーストラリアは囚人の流刑地として始まり、1788年から1868年までの間に16万人以上の囚人がイギリスからオーストラリアに送られたと言われていますが、1851年のゴールドラッシュには各国から夢を求めて多くの自由移民がやって来ましたし難民もかなり受け入れて来ていますので、オーストラリア人の祖先は囚人とは一概には言えないのです。

流刑制度のあった時代に初めから自由移民としてオーストラリアに来た人たちも普通にいたので、流刑地と言われるのはあまり好ましく思わなかった人たちもいたでしょう。

でも、植民地時代の囚人たちがオーストラリアの基礎を築きあげてきたのは間違いはなく、その子孫である事を誇りに思っている生粋のオーストラリア人も多いのは確かです。

そもそも囚人とひと括りにされていますが、その中には政治犯や凶悪犯罪者以外に貧しさからパンなどを盗んだ人たちも大勢いたので、一般的に想像するような犯罪者と考えるのは違うかもしれません。

オーストラリアに送られた囚人たち

では、何故オーストラリアが流刑地に選ばれたのか。

その経緯には、イギリスの産業革命アメリカの独立戦争の影響が大きく関係しています。


18世紀の半ば、イギリスでは蒸気機関車などの機械が次々と発明されるようになり、産業革命 (Industrial Revolution) が起こりました。

それまで手作業が主だった工場は効率化を重視した機械を導入するようにり、時代は資本主義社会へと移行していきます。

その工場労働者となった人たちの中には、新農法の第2次囲い込み (Enclosure) 導入の影響で、それまで放牧などに使っていた共有地が使用できなくなって職にあぶれて都市部に出て来た農民たちもいました。

しかし彼らは過酷な労働や安い賃金で雇われ、その生活は決して楽なものではなく、次第に軽犯罪が頻発するようになります。

それまで罪を犯した者の多くは、北アメリカのイギリス植民地に送られていたのですが (推定約4〜5万人) 、1775年に始まったアメリカ独立戦争 (American Revolutionary War) により囚人の受け入れを拒否されたイギリスは、早急に新たな囚人を収容する場所の確保を迫られました。

ティムズ川に浮かぶ刑務所

土地がないので考え出されたのが、古い軍艦を改造したハルク (the hulks)と呼ばれる刑務所です。

船の規模にもよりますが、平均300万人ほどの人たちが収容されていたハルクはすぐにパンパンになり、1791年までには7艘に増えていました。

維持費も馬鹿にならず、受刑者たちは自分の食い分を稼ぐ為に労働に借り出されましたが、長時間労働と貧しい食事で病気が蔓延し、イギリス政府の頭の痛い問題となっていました。
(参考: http://stuart.scss.dyndns.info )

世界の果てにある大陸ダウンアンダー

そこで目を付けたのが、1770年にジェームズ・クックが発見した世界に果てにあるオーストラリア大陸です。
クックの航海に同行した植物学で政治家のジェセフ・バンクスもオーストラリア大陸を囚人を送る事をずっと推していました。

こうして1787年5月13日、当時のイギリス国王ジョージ3世の命を受け、アーサー・フィリップ (Arthur Phillip) の率いる11艘の第一船団がオーストラリア大陸を目指してポーツマスを出発しました。記録によると、1350人のうち780人が囚人で、女性は約20% だったそうです。

シドニー王立植物園にあるアーサー・フィリップ像

8カ月にも及ぶ過酷な航海の末、ついに1788年1月26日にシドニーコーブに到着。ここから白人によるオーストラリア大陸植民地支配の歴史が始まりました。(現在オーストラリアデイに定められている日です。)

この後も1790年に第2船団、1791年には第3船団と定期的にイギリスから囚人が連れて来られています。
囚人ではない最初の自由移民が来れるようになったのは1793年からです。

1788年から囚人輸送が廃止される1868年までに受け入れた囚人は、ニューサウスウェールズが全体の約50%、タスマニアが約42%、西オーストラリア6%、ビクトリア2%となっています。クイーンズランドにも多少送られましたが、南オーストラリアだけは受け入れていません。

流刑者たちの暮らし

流刑者たちはブッシュを開拓して道路などを建設していくなど、植民地発展の為の重要な労働力でもありました。

一般的な刑期は7年で、晴れて自由の身となったエマンシピストと呼ばれた人たちもいますが、中には逃亡してブッシュレンジャーと言われる盗賊になっていった人たちもいました。

なかなか植民地が発展出来なかったのは、労働力が不足していたからです。オーストラリア大陸が流刑地となってからすぐヨーロッパでナポレオン戦争が勃発し、イギリスは総力をあげて戦争に参加した為、囚人をオーストラリアに送る事が出来なかったのです。

1815年にナポレオン戦争が終結した時には更に事態は深刻で、兵士として駆り出された労働者たちが故郷へ戻った時にはイギリスの町では多くの失業者で溢れ、犯罪率も増加しました。

これにより政府は一気に流刑囚をオーストラリアへ送り、オーストラリアの人口は5年ほどで2倍にまで増加。

この人口増加により、囚人たちを管理する宿舎の必要性を感じたニューサウスウェールズ5代目植民地総督ラクラン・マッコーリ (Lachlan Macquarie) は、1819年に建築家だった囚人のフランシス・グリーンウェイ (Francis Greenway) に依頼してハイドパークバラックスという男性用宿舎を建築しました。

ハイドパークバラックス

このハイドパークバラックスに収容されていた人たちは、主に窃盗罪の人が大半だったようです。

この建物は1948年以降は女性移民の保護施設、政府の施設としても使用されましたが、現在は博物館になっていて、オーストラリア全土に点在する11カ所あるオーストラリアの囚人遺跡群 (Australian Convict Sites) のひとつとして2010年7月にはユネスコ世界文化遺産に登録されています。

当時の囚人たちは、この宿舎に寝泊まりし、ポートジャクソン植民地 (現在のロックス) 開拓の為に労働へ駆り出されていました。

ハイドパークバラックスにある囚人たちの様子が描かれた絵

マッコーリは今までの総督とは違い、囚人たちの能力に応じてチャンスを与え、自由になった働き盛りの囚人たちには土地を割り当て元囚人の地位向上に努めました。実際それによって、富や名声を得て尊敬を集めていった囚人も大勢います。

彼の進歩的な政策は、強制労働を必要としていた特権階級の人たちからはあまり快く思われなかったようですが、とにかく彼は任期の1810年から1821年の間に “壊滅的な町” と言われていた当時のシドニーをきれいに整備し、道路を作ったり病院や教会、学校などを建設し、洗練された町に変えていったのです。

その功績にも関わらず、マッコーリの政策は理解されるどころか囚人の取り扱いを厳しくする方針を強化するという皮肉な結果を招きました。

そして、この頃にはオーストラリアはただの流刑地からイギリスの資源供給地として期待されるようになっていて、囚人の雇用は次第に政府から民間へと転換していきます。

シドニーハイドパーク北入口のマッコーリ総督像

ちなみに1828年の国勢調査ではシドニーの人口は1万800人、そのうち自由移民は全体の13%ほど、80%は16~35歳でした。なお、原住民であるアボリジニの人々は入っていません。彼らは最初は入植者たちと共存して暮らしていましたが、次第に迫害されていき悲しい歴史をたどっていくことになります。

恐ろしい監獄 ポートアーサー

過酷な生活を強いられた厳しい監獄で有名なのが、タスマニアにあるポートアーサー (Port Arthur)ノーフォーク島 (Norfolk Island) です。

ニューサウスウェールズ6代目総督トーマス・ブリスベン (Thomas Brisbane) は「凶悪な犯罪者はこの2カ所に送られ、帰る望みをすべて永久に断たれる。」と言っています。

美しい景色でも知られる観光地ポートアーサーですが、それとはうらはらに監獄では残酷な拷問や石炭の採掘などの過酷な労働を強いられ、厳しい監視システムの徹底により脱出不可能な監獄としても有名でした。

この監獄は1830年から1877年まで稼働し、凶悪な罪を犯した囚人が収容されていました。(現在でも中を見学出来ます。)

当時バン・ディーメンズ・ランド (Van Diemen’s Land) と呼ばれていたこのタスマニア (タスマニアになったのは1856年) は、1803年から1853年の間に約6万7千人の囚人が送られ、そのうちの約1万4500人はアイルランド出身の人たちでした。

1820年に約2500人だった囚人は1833年になると約1万4900人に増加、うち1864人が女性。タスマニアの州都ホバート郊外にはかつて女性囚人の作業所だったカスケーズ女子工場 (Cascades Female Factory 1827年〜1877年) の跡も残されています。

このように囚人たちは複数の場所に振り分けられ、他にもニューサウスウェールズのニューキャッスルやポートマッコーリ、クイーンズランドのモートンベイなども罰則の地として使われていました。
(参考: http://www.let.osaka-u.ac.jp)

女性の囚人たち

女性の囚人たちが働く工場ですが、いちばん最初に出来た女子工場は、1804年に建てられたニューサウスウェールズのパラマタ (Parramatta) のウールを作る工場です。

女性の囚人たちは、現地に到着するとすぐ女子工場へ送られましたが、到着してすぐ結婚をする人も大勢いたようです。

結婚を希望する男性陣が女性を求めて工場に列をなす事もあり、目当ての女性の足元にハンカチを落として拾ったらカップル成立という決まり事も存在しました。生き残る為に身を売る選択をするしかなかった女性も多くいたのです。

19世紀、女性の離婚は許されませんでしたが、海を隔てて7年間離れていたら夫が生きていたとしても再婚出来たそうです。

分離していく植民地

初期の頃、囚人はニューサウスウェールズで受け入れられていましたが、次第にタスマニアに移送されるようになり、1840年にニューサウスウェールズへの囚人移送が廃止された後、1841年から1847年にかけてはビクトリアのメルボルンにも移送されました。

各植民地 (現在の州) は次第に独自の力を持っていった為、1850年にイギリス政府によってオーストラリア植民地政府法 (The Australian Colonies Government Act) が制定され、植民地が自ら自治権を持てるようになりました。

それによって各植民地が次々と独立していくのですが、1829年に正式にイギリス領となっていた西オーストラリアもそれをきっかけに、1850年から1868年の間におよそ9720人の囚人が送られ、囚人たちは労働力の不足からそのまま開拓者として入植しました。

ニューサウスウェールズとタスマニアに送られた人たちの識字率は約75%であったのに対して、西オーストラリアでは50%だったという記録も残っています。

 

スポンサーリンク Advertisement

人道的対応と廃止に向けて

オーストラリア大陸とニュージーランドの中間に位置する太平洋にあるオーストラリア領の島ノーフォーク島 (Norfolk Island) も、当時はポートアーサーに並ぶ残虐な刑罰が行われていた監獄島だった事は前述しました。

その残虐さは囚人が「刑罰を受けるくらいなら死刑の方が幸せだ」と懇願したほど過酷なものでしたが、1840年にアレクサンダー・マコノキー (Alexander Maconochie) がノーフォーク島の総督となってから、少し流れが変わっていきます。

彼は就任すると直ちに、人道的な対応で彼らの尊厳を回復する方向へ指導しました。
「人間は適切に対応すれば、更生出来る。」と主張し、この考え方は後に世界各国で取り入れていくのですが、マッコーリの時と同じく特権階級には理解されず、結果的に職を追われてしまいます。

マコノキーが去ると再び残虐行為が繰り返されましたが、監獄に務める聖職者の強い抗議により1854年にノーフォーク島の監獄は閉鎖され、ポートアーサーに移される事になりました。

ポートアーサーは、1840年頃になるとムチ打ちの刑などはほとんど行われなくなり、ノーフォーク島ほど厳しくはなくなっていたようです。この頃になると、各地で流刑囚廃止の促進がされていたからです。

そして1868年に流刑制度は完全に廃止され、80年間の流刑囚の歴史が幕を閉じました。

釈放された人たちは、オーストラリアで新たな生活基盤を築き、母国に帰った人はほとんどいませんでした。こういった人たちによって、オーストラリアの新たな文化が形成されていったのです。

(参考: http://members.iinet.net.au)

おわりに

オーストラリアは歴史の浅い国とはよく言われますが、その歳月の中にも複雑に絡み合う歴史が存在し、初期の植民地時代に囚人たちによって作られた道路や建物などは現代でも使用されていたりするのです。

そういう人たちがいたからこその今のオーストラリアだと思うと、何となく感慨深いものがあります。
そんな先人たちの軌跡をこれからも少しずつ詳しく紹介していきたいと思っています。