オーストラリアはかつての流刑地で囚人の国?その歴史と誤解を紐解く

1770年にキャプテン・クックがイギリスの植民地宣言したオーストラリア大陸に西洋人が入植して来たのは、18年後の1788年のこと。

きっかけは、イギリスに溢れかえる囚人を送る流刑地としてでした。

日本でもたまに「オーストラリアは流刑地だった」とか「囚人の子孫が住んでいる」などと言っている人を見掛けますが、何となく認識に違和感があることが多いのが現状です。

ということで、今回はオーストラリアに送られてきた囚人たちについて深掘りしていきましょう。

 

オーストラリア大陸に送られた囚人たち

アーサー・フィリップ率いる11隻のイギリスの第一艦隊 (First Fleet) が現在のサーキュラキーであるシドニーコーブに到着し、この日からオーストラリアは流刑地という名のもと、イギリスの植民地支配が始まりました。

オーストラリアに1788年から1868年までの間に16万人以上の囚人と呼ばれる人たちが送られたと言われています。

その80年間にオーストラリアに来た囚人の割合は、ニューサウスウェールズが全体の約50%、タスマニアが約42%、西オーストラリア6%、ビクトリア2%。クイーンズランドにも多少送られましたが、南オーストラリアだけは全く送られていません。

流刑地となったオーストラリア

シドニー王立植物園にあるアーサー・フィリップ像

「囚人 (Convict)」と言うと凶悪犯のような響きがありますが、有罪判決を受けた人々の犯罪内容は主に窃盗などの軽犯罪が多く、貧しさのためにパンを盗んだような人たちでした。大半がイングランド出身の人たちで、その中に少数のアイルランド人やスコットランド人もいたようです。

もちろん政治犯や凶悪犯罪など重大な罪を犯した人たちもいましたが、軽犯罪者とは違う場所に投獄されています。

 

オーストラリアが流刑地に選ばれた経緯は「どうしてイギリスはオーストラリアを植民地にしたのか」にも書きましたが、簡単にまとめると1783年にアメリカの独立戦争に負けたことで、それまでイギリスが流刑地としていた年がなくなり、本土の刑務所には収容できないくらいの囚人で溢れてしまったからです。

1787年5月13日、当時のイギリス国王ジョージ3世の命を受け、オーストラリア植民地の初代総督となるアーサー・フィリップ (Arthur Phillip) が11艘の第一船団を率いてポーツマスを出航。

記録によると、この時に船に乗っていたのは1350人で、うち囚人は780人 (女性は約20%) です。

8カ月にも及ぶ過酷な航海の末、1788年1月26日にシドニーコーブ (サーキュラキー) に到着。その時に作られたポートジャクソン開拓地が、現在のロックスの位置にありました。これがロックスが「オーストラリア最古の町」と言われる所以です。

これにより、古くからこの地で暮らしていた先住民エオラの人々の生活を永遠に変えてしまったのは言うまでもありません。

この到着した1月26日は、現在オーストラリアデーをこの日に制定しているため、長い間にわたって物議を醸し出しています。

この後も1790年に第2船団、1791年には第3船団と定期的にイギリスから囚人が連れて来られています。

囚人ではない最初の自由移民が来れるようになったのは1793年からです。

分離していった植民地

イギリス植民地だったオーストラリアの開拓地は、当時ニューサウスウェルズ植民地とバン・ディーメンズランドと呼ばれていたタスマニア島だけでしたが、次第に開拓地が広がっていき、現在「州」と呼ばれているそれぞれの植民地が公的に植民地が自ら自治権を持てるようになったのは1850年のこと。

それぞれの地域が次第に独自の力を持っていったため、イギリス政府によってオーストラリア植民地政府法 (The Australian Colonies Government Act) が制定されてからです。

ニューサウスウェルズ

植民地初期はニューサウスウェールズ植民地シドニーで受け入れられていた囚人 (1788〜1840) ですが、次第に次に大きな開拓地がある当時バン・ディーメンズランドと呼ばれていたタスマニアに移送 (1803年〜1853年) されるようになりました。

タスマニア

タスマニアには現在のホバートに当たるサリバンズコーブに2番目の大きな開拓地があり、定期的に囚人が送られるようになったのは1818年になった頃だと言われています。

西オーストラリア

スワンヒル植民地 (西オーストラリア) は他の地域に比べて少し遅い1829年に正式にイギリスの植民地となったのですが、当初は囚人を受け入れないと宣言していました。

ですが労働力が不足したため、各植民地が次々と独立していくのをきっかけに、第3の移送先ととして、1850年から1868年の間におよそ9720人の囚人を受け入れています。

ちなみに、ニューサウスウェールズとタスマニアに送られた人たちの識字率は約75%であったのに対して、西オーストラリアでは50%だったという記録も残っています。

その他の地域

1835年頃になると、ニューサウスウェルズの地域が広がり、後のクイーンズランド州ブリスベンになるモートンベイ植民地、現在のビクトリア州メルボルンに当たるポートフィリップ植民地にも小規模な囚人施設がありました。

ビクトリア州は1841年から1847年に少人数の囚人を受け入れていたようですが、1846年から1850年にかけてシドニー経由で上陸した囚人 (イギリスで刑期を終え、条件付きの釈放になった人) も実験的に受け入れていたようです。

モートンベイは植民地で再犯した人の二次懲罰の場所として機能していました。そういった刑務所は各地に点在し、ノースフォーク(1825年)、ニューカッスル (1804年)、ポートマッコーリー (1821年)、マッコーリーハーバー (1822年)、マリア島 (1825年、後に保護観察所) などがあります。

囚人はオーストラリアの基礎を築くための貴重な労働力だった

流刑者たちはブッシュを開拓して道路などを建設していくなど、植民地発展の為の重要な労働力でもありました。

一般的な刑期は7年で、刑期が終わると晴れて自由の身となり (エマンシピスト) となり、オーストラリアの地で家族を作ったり、商売をしたりと、イギリスへ戻る人はほどんどいなかったと言います。というのも、犯罪者のレッテルを押されてイギリスで差別を受けるよりは、オーストラリアの方がチャンスが多かったからです。

しかし労働力は足りず、なかなか植民地は発展出来ませんでした。

オーストラリア大陸が流刑地となってからすぐヨーロッパでナポレオン戦争が勃発し、イギリスは総力をあげて戦争に参加した為、囚人をオーストラリアに送る事が出来なかったのも大きな原因です。

1815年にナポレオン戦争が終結した時には更に事態は深刻で、兵士として駆り出された労働者たちが故郷へ戻った時にはイギリスの町では多くの失業者で溢れ、犯罪率も増加しました。

これにより政府は一気に流刑囚をオーストラリアへ送り、オーストラリアの人口は5年ほどで2倍にまで増加。

この人口増加により、囚人たちを管理する宿舎の必要性を感じたニューサウスウェールズ5代目植民地総督ラクラン・マッコーリ (Lachlan Macquarie) は、1819年に建築家だった囚人のフランシス・グリーンウェイ (Francis Greenway) に依頼してハイドパークバラックスという男性用宿舎を建築しました。

このハイドパークバラックスの建物は、現在オーストラリア全土に点在する11カ所あるオーストラリアの囚人遺跡群 (Australian Convict Sites) のひとつとして博物館になっており、当時の様子を見ることが出来ます。2010年7月にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。

シドニーハイドパーク北入口のマッコーリ総督像

現在ラクラン・マッコーリの銅像も、ハイドパーク北口とハイドパークバラックス入り口で見ることが出来ます。

ちなみに1828年の国勢調査ではシドニーの人口は1万800人、そのうち自由移民は全体の13%ほど、80%は16~35歳でした。なお、先住民であるアボリジナルの人々はこの数には入れられていません。

ハイドパークバラックス

ハイドパークバラックスに収容されていた人たちは、主に窃盗罪の人が大半だったようです。1948年以降は女性移民の保護施設、政府の施設としても使用されています。

当時の囚人たちは、この宿舎に寝泊まりし、ポートジャクソン植民地開拓のために労働へ駆り出されていました。

ハイドパークバラックスにある囚人たちの様子が描かれた絵

マッコーリは今までの総督とは違い、囚人たちの能力に応じてチャンスを与え、自由になった働き盛りの囚人たちには土地を割り当て元囚人の地位向上に努めました。実際それによって、富や名声を得て尊敬を集めていった囚人も大勢います。

彼の進歩的な政策は、強制労働を必要としていた特権階級の人たちからはあまり快く思われなかったようですが、とにかく彼は任期の1810年から1821年の間に “壊滅的な町” と言われていた当時のシドニーをきれいに整備し、道路を作ったり病院や教会、学校などを建設し、洗練された町に変えていったのです。

その功績にも関わらず、マッコーリの政策は理解されるどころか囚人の取り扱いを厳しくする方針を強化するという皮肉な結果を招きました。

そして、この頃にはオーストラリアはただの流刑地からイギリスの資源供給地として期待されるようになっていて、囚人の雇用は次第に政府から民間へと転換していきます。

恐ろしい監獄 ポートアーサー

過酷な生活を強いられた厳しい監獄で有名なのが、タスマニアにあるポートアーサー (Port Arthur)ノーフォーク島 (Norfolk Island) です。

ニューサウスウェールズ6代目総督トーマス・ブリスベン (Thomas Brisbane) は「凶悪な犯罪者はこの2カ所に送られ、帰る望みをすべて永久に断たれる。」と言っています。

美しい景色でも知られる観光地ポートアーサーですが、それとはうらはらに監獄では残酷な拷問や石炭の採掘などの過酷な労働を強いられ、厳しい監視システムの徹底により脱出不可能な監獄としても有名でした。

この監獄は1830年から1877年まで稼働し、凶悪な罪を犯した囚人が収容されていました。(現在でも中を見学出来ます。)

当時バン・ディーメンズ・ランド (Van Diemen’s Land) と呼ばれていたこのタスマニア (タスマニアになったのは1856年) は、1803年から1853年の間に約6万7千人の囚人が送られ、そのうちの約1万4500人はアイルランド出身の人たちでした。

1820年に約2500人だった囚人は1833年になると約1万4900人に増加、うち1864人が女性。タスマニアの州都ホバート郊外にはかつて女性囚人の作業所だったカスケーズ女子工場 (Cascades Female Factory 1827年〜1877年) の跡も残されています。

このように囚人たちは複数の場所に振り分けられ、他にもニューサウスウェールズのニューキャッスルやポートマッコーリ、クイーンズランドのモートンベイなども罰則の地として使われていました。
(参考: http://www.let.osaka-u.ac.jp)

女性の囚人たち

女性の囚人たちが働く工場ですが、いちばん最初に出来た女子工場は、1804年に建てられたニューサウスウェールズのパラマタ (Parramatta) のウールを作る工場です。

女性の囚人たちは、現地に到着するとすぐ女子工場へ送られましたが、到着してすぐ結婚をする人も大勢いたようです。

結婚を希望する男性陣が女性を求めて工場に列をなす事もあり、目当ての女性の足元にハンカチを落として拾ったらカップル成立という決まり事も存在しました。生き残る為に身を売る選択をするしかなかった女性も多くいたのです。

19世紀、女性の離婚は許されませんでしたが、海を隔てて7年間離れていたら夫が生きていたとしても再婚出来たそうです。

人道的対応と廃止に向けて

オーストラリア大陸とニュージーランドの中間に位置する太平洋にあるオーストラリア領の島ノーフォーク島 (Norfolk Island) も、当時はポートアーサーに並ぶ残虐な刑罰が行われていた監獄島だった事は前述しました。

その残虐さは囚人が「刑罰を受けるくらいなら死刑の方が幸せだ」と懇願したほど過酷なものでしたが、1840年にアレクサンダー・マコノキー (Alexander Maconochie) がノーフォーク島の総督となってから、少し流れが変わっていきます。

彼は就任すると直ちに、人道的な対応で彼らの尊厳を回復する方向へ指導しました。
「人間は適切に対応すれば、更生出来る。」と主張し、この考え方は後に世界各国で取り入れていくのですが、マッコーリの時と同じく特権階級には理解されず、結果的に職を追われてしまいます。

マコノキーが去ると再び残虐行為が繰り返されましたが、監獄に務める聖職者の強い抗議により1854年にノーフォーク島の監獄は閉鎖され、ポートアーサーに移される事になりました。

ポートアーサーは、1840年頃になるとムチ打ちの刑などはほとんど行われなくなり、ノーフォーク島ほど厳しくはなくなっていたようです。この頃になると、各地で流刑囚廃止の促進がされていたからです。

そして1868年に流刑制度は完全に廃止され、80年間の流刑囚の歴史が幕を閉じました。

釈放された人たちは、オーストラリアで新たな生活基盤を築き、母国に帰った人はほとんどいませんでした。こういった人たちによって、オーストラリアの新たな文化が形成されていったのです。

(参考: http://members.iinet.net.au)

オーストラリアは現在でも囚人の子孫が多いのか?

Australia

今でも時々オーストラリア人=白人と思っている人がいるようですが、その情報は古いです。

かつてイギリスの植民地だったオーストラリアでは、現在でもイギリス文化が色濃く残っていますし、ひと昔前のオーストラリアのイメージは独特の訛りのある白人でした。

戦前から戦後にかけて「白豪主義」を掲げ、国建設のために白人至上主義思想を促進していたのも事実ですが、オーストラリアは劇的に移民制度を変化させた国ということでも知られており、現在は4人に1人が外国生まれと言われる様々なバックグラウンドを持つ人が暮らす多民族国家になりました。

ですから、特に都市部にいると生粋のオーストラリア人に会うよりも移民系の人に会う回数の方が多いかもしれません。

ですが、もちろん西洋人がオーストラリアに来るもっとずっと前 (6万5千年前) から住んでいた先住民であるアボリジナルの人たちの存在も忘れてはいけません。

植民地時代も初めから自由移民としてオーストラリアに移住した人もたくさんいましたし、1851年以降のゴールドラッシュで各国から人が集まり人口が爆発的に増えています。

おわりに

オーストラリアの観光というと、コアラやカンガルー、マリーンスポーツなどがフォーカスされることが多いですが、実は観光名所に囚人にゆかりあるものが多いですし、商品に囚人に由来する名前が付けられていることも珍しくありません。誇りを持っているオーストラリア人も多いんです。

オーストラリアは歴史の浅い国とはよく言われますが、イギリスやアメリカなどの深い関係や、多くの移民たちがもたらした文化的背景など複雑に絡み合う歴史が存在します。

そして、初期植民地時代に囚人たちが建設した道路や建物などは現代でも使用されているものも多いですし、深く知ると「先祖が囚人」は必ずしも侮辱の言葉にはならないことも分かるのではないでしょうか。

もちろん同時に、先住民たちの悲しい過去があることは忘れてはいけません。

参考にした資料: The First Fleet arrives at Sydney Cove | National Museum of Australia
Convicts and the Colonisation of Australia, 1788-1868 | The Digital Panopticon