オーストラリアの基盤はゴールドラッシュで築かれた

オーストラリアの基盤はゴールドラッシュで築かれた

ゴールドラッシュ(Gold Rush)という言葉を聞いた事があるでしょうか。

金鉱が発見された事により、一攫千金を夢見た人たちが世界中から押し寄せる現象をこう呼びます。

ゴールドラッシュと言えば、1848年〜1855年アメリカのカリフォルニア州で起こったものが有名ですが、同じような時期にオーストラリアでも起こりました。

オーストラリアの歴史を語る上で欠かせないゴールドラッシュは、当時のオーストラリアの人口を爆発的に増やし、後のオーストラリア形成に多大な影響を与える事になりました。

今回はそんなゴールドラッシュについて、迫ってみます。

ゴールドラッシュのはじまり

最初に出てきたカリフォルニアのゴールドラッシュですが、これはまだイギリスの植民地だったオーストラリアにも大きな影響を及ぼしました。

オーストラリアにいた6000人もの人たちが、一攫千金を夢見てカリフォルニアに行ってしまったのです。

この人たちは、1849年にカリフォルニアを目指した人が多かったので49sと呼ばれました。

1950年、当時オーストラリアの植民地総督は、慌ててニューサウスウェールズの地質調査を開始し、彼らをオーストラリアに呼び戻そうと必死でした。

当時はまだオーストラリアという名称はなく、ニューサウスウェールズ州はニューサウスウェールズ植民地と呼ばれ、今のように州として独立していませんでした。

さて、カリフォルニアから帰って来た49sたちですが、結果的にカリフォルニアで培った金の採掘技術や知識をオーストラリアに持ち帰り、後に始まるオーストラリアのゴールドラッシュに一役買う事になります。

オーストラリアで一番最初に金を見つけた事になっているエドワード・ハーグレイブス(Edward Hammond Hargraves 1816 − 1891)も、かつてカリフォルニアに渡り夢破れた49sのひとりでした。

1851年1月にオーストラリアに戻って来た彼は、金鉱を見つけなくても金を探す事でお金を稼ぐ方法を見つけ、ニューサウスウェールズ植民地のバサースト(Bathurst)の近くで働いていたジョン・リスター(John Lister) とウィリアム・トム(William Tom)に声を掛けて、金を探し始めます。

彼がバサースト近郊のマックワイアー川渓谷(Macquarie Rever Valley)に目を付けたのは、その付近の地形が砂利や土が蓄積されたクリーク(小川)のあるカリフォルニアの金鉱に似ていたからです。

実は本気で金を見つける事を目的としてなかった彼ですが、2月12日にルイスポンドクリーク(Lewis Ponds Creek)で、本当に砂金が5粒ほど発見されます。

彼はこの事をシドニーで公表し、新聞にも報道されると多くの人たちが自分たちも金を見つけようとそこへ押しかけました。

金が採れた場所は、金を発見したハーグレイブス本人が旧約聖書に出て来る黄金郷にちなんでOphirと命名。
これが一番最初のゴールドラッシュの始まりです。

しかし本当は、この騒ぎが起こる12年も前の1839年にニューサウスウェールズ州のブルーマウンテンで調査員によって金は見つけられていたのです。

他にも何件かそういう報告を受けていた植民地政府でしたが、混乱を嫌ってずっとそれまで金の事は秘密にしていたのです。

この一件で金の事は広く知れ渡ってしまったので、ニューサウスウェールズのバサーストに多くの人が集まり、政府は採掘の規制、採掘許可書の発行、報奨金を支払いなど、様々な取り決めを作らなければならなくなりました。

バサーストのThe Big Gold Panner    (Photo Taken 25 December 2014)

地図で見ると、最初に金が見つかったルイスポンドクリークは、バサーストよりもオレンジの町方が近いです。

にも関わらず、バサーストが最初に金が見つかった場所という記述が多いのは、ハーグレイブスが泊まっていたホテルの拠点がバサーストだったのと、オレンジもバサースト管轄区域だからなのかもしれません。

バサーストにある金を探す男性の大きなモニュメントは、今日もそこを車で通る人たちの目をひいています。

ビクトリア州でのゴールドラッシュ

ゴールドラッシュが始まると、困るのは町に残された人たちです。

多くの労働者が、自分の仕事を投げ出し金鉱を求めてニューサウスウェールズに行ってしまい、ビクトリアの中心部メルボルンの多くの店は閉まり、町の機能が停滞するほどの事態が起こりました。

それに農村部から働き手がいなくなると、作物を育てたり動物の飼育をする人がいなくなり、食料が不足する懸念があります。

そこで政府は「メルボルンから200マイル以内の場所で金鉱を見つけた者には£200の賞金を出す!」とおふれを出し、人々をビクトリアに呼び戻しました。

£200と言えば、当時羊飼いや鍛冶などで生計を立てていた人たちにとって、給料の10年分!

しかし皮肉にも、これが更なるゴールドラッシュの引き金になります。

ニューサウスウェールズで金が見つかった同年の8月、ビクトリアのバララット近郊でも金が発見され、他にも次々と鉱山が見つかり始めます。
特にバララット(Ballarat)からベンディゴ(Bendigo)までの一帯はゴールドフィールドと呼ばるほど、多くの鉱山がありました。

この時期、男性人口の半分は都市部から消え、金の採掘に夢中になったと言います。

増える自由移民たち

更に南オーストラリアでも金鉱が見つかり、ゴールドラッシュは勢いを増します。

それまでいたイギリス系の移民に加え、噂を聞きつけたイギリス本土にいるイギリス人、アメリカ人、そして中国人などがビクトリアに集中し、1851年には77,000人だったビクトリアの人口は、1858年には約7倍の540,000人にまで増加。世界の3分の1の金を産出していた事もありました。

中国人は、金鉱採掘業者が労働者として雇い、4万人オーストラリアに来たそうです。

多くはイギリス系の人たちで、ゴールドラッシュを機にオーストラリアにやって来た人たちは政治にも関心のある中産階級の人が多く、後の政治や経済などに大きく影響を与えて行く事になります。

こうして、自分の意思で移民してくる自由移民が増えていき、イギリスの植民地として70年間送られてきた囚人の数を上回って行きました。(囚人移民制度は1953年に廃止。)

ちなみに、かつてバララットの金鉱があった場所には、現在ゴールドラッシュ全盛期の町を再現したソブリンヒル(Sovereign Hill)というテーマパークがあり、鉱山の採掘現場の再現や人々の暮らしなどを垣間見る事が出来ます。

Sovereign Hill
39 Magpie Street, Ballarat, Victoria, 3350 Australia
http://www.sovereignhill.com.au

ここでは登録して許可証をもらえば、実際に砂金採掘体験も出来ます。
金が見つかるかどうかは運ですが、今も昔も金を探す多くの人で賑わっています。

砂金などの細かい金を探す事をPanningと言い、水の中の土や小石を揺すって洗い流し、比重の重い金だけをより分けて探します。

黄金郷の実際

このゴールドラッシュを受けて、金鉱周辺はテントや小屋が建てられ賑わい、町の中心部は宿泊施設を建てる為の大工や金を採掘する為の道具を作る鍛冶屋などが大忙しとなりました。

再現された鉱山付近の様子 (Sovereign Hill)

人口増加で町は栄えていきましたが、それに加えて泥棒や強盗なども多く出没したようです。

当時の金鉱を目指してオーストラリアに来た人々は、強盗などから身を守る為や高額な経費を分担するなどの様々な理由からグループを形成し、集団で行動していたと言います。

混乱を避ける為に、政府も様々な取り決めをしました。

ひとりが採掘出来る金鉱のエリアを制限し、平等に配分。

採掘したい者は月30シリングを払い許可証をもらわなければならず、採掘者は日没の合図と共に、作業を終わらせてテントに戻らなければいけないという決まりを作りました。

他にもキリスト教で大切にされている安息日(日曜日)は仕事をせずに必ず休むという決まりや、金鉱でのアルコール販売を禁止にしました。が、アルコールに関しては全く効果がなく、闇で販売する店が増えただけだったそうです。

政府がアルコールを解禁にした途端に100軒にも及ぶパブが建ち、最終的には500軒も出来るほど真冬でも喉の渇く金鉱の仕事をする人たちにとってアルコールは大人気だったようです。(余計に喉が渇きそうですけどね。)

バララットのメイン通りにあったパブのいくつかは、ショーのあるシアターも兼ねており、特にCharlie Napierはシェークスピアからパロディ劇まで上演する大人気のパブだったそうです。
そしてパブが増え賑わう事によって、結果的に夜道の危険が減りました。

仕事をしてはいけない日曜日には、鉱夫が集まり大きなボクシング大会を開いたり、クリケットをしたりして楽しんでいたようです。

そうやって余暇を楽しむ反面、水の少ない内陸部にあるアウトバックでの生活は大変でした。

成功する人はひと握り。
ほとんどの人たちが毎月の支払いに追われ、沼や池から引いていた水は決して衛生的とは言えず、質の悪い水で病気になる人もいました。

それでもバララットを始めとする金鉱のある場所は次第に人口が増えて栄えていき、住みつく人も出てきました。

数少なかった女性も5年のうちに2倍になり子供も増え、少しずつ学校や教会や図書館などの建設が進んで行き、1851年に6,000人だったバララットの人口は、5年後の1859年には40,892に増加しています。

飲料水も少しずつ改善されてはきていたものの、1860年の干ばつに見舞われた年はきれいな水が手に入らず、3カ月のうちにバララットだけで10歳以下376人の子供が亡くなりました。

その後も幾度か訪れる干ばつの度に水は深刻な問題となりました。

怒った民衆によるユーレカ砦の反乱

ビクトリアで金が見つかって多くの人が押しかけた時代、政府のやり方に不満を持った鉱夫達による抗議運動が度々起こっていました。

金の稼ぎとは関係なく毎月支払う30シリングの採掘許可証は、生活が苦しい人たちには払う事が難しく、不当な罰金や許可証を持っていない者を容赦なく逮捕するなどの厳しい取り締まりに、鉱夫たちの不満はどんどん募っていきます。

1854年10月、ついにオーストラリア最大の民衆による武装蜂起と言われるユーレカ砦の反乱(Eureka Stockade Riot)のきっかけとなる事件が起きました。

ひとりの鉱夫がユーレカホテルのそばで死亡しており、容疑をかけられたホテル所有者らが起訴されましたが、結局無罪となったのです。

鉱夫たちの権力者に対する不満は最高潮に達し、10月17日に大集合を開き、ユーレカホテルを焼き払う騒動となりました。
そして、その罪でより3人の鉱夫が逮捕されます。

11月11日に大集合で、鉱夫たちはバララット改革連盟を結成。

23日にホテル所有者の有罪判決が決まると、逮捕された3人の解放を政府に要求しましたが認められず、11月28日には警察や軍隊と小競り合いを起こす騒ぎにまでなります。

12月、約1000人の鉱夫たちは革命の象徴となる南十字星の描かれた旗を掲げ、バララットにあるユーレカの丘に砦を築いて反抗。

革命連盟によりデザインされたユーリカの旗

12月3日の早朝、砦の中にいた150人の鉱夫たちは、280人の軍人や警察に攻撃され、軍隊側の死者5人に対して鉱夫側に30人。13人が逮捕されます。

しかしここで大逆転が起こりました。

この反乱を機に作られた王立調査委員会が調査に乗り出し、鉱夫たちは無罪に。
植民地政府のやり方は上から批判されました。

従来の採掘許可証は廃止となり、選挙権ももらえるようになり、金鉱の運営にも携われるようにもなったのです。

このユーレカ砦の反乱と呼ばれる事件は、オーストラリアの民主主義とアイデンティティの確立を象徴する鍵となった出来事だったと言われています。

確かに、オーストラリア人の反骨精神や権力に反発して弱い者の味方というイメージは、この頃充分に発揮されているように思います。

現在、バララットのユーレカ砦の築かれた場所はユーリカ記念公園(Eureka Memorial Park)になっており、記念碑が建っています。

バララットの町

そしてメルボルン市内にある、南半球で一番高いタワーと言われる展望台のあるユーレカタワー(297m)の名前は、このユーレカ砦の反乱に由来するそうです。

タワーの頂上部の金色は金鉱山を、赤い筋は騒動で流れた血を、ガラス窓の青色はユーレカの旗を表しているんだそですよ!

この革命はタワーの名前になるくらい、オーストラリア人に愛されてるんですねえ。
水戸黄門や大岡越前ではないですが、虐げられた平民がハッピーエンドを迎える話は読んでてスカッとしますね。

ユーレカ、ユーリカ、ユレーカ、ユラーカ、いろんな日本語表記を見ますが 英語ではEureka [juəríːkə]、文中ではユーレカで統一しましたが、途中でこんがらが理想でした。

ゴールドラッシュの恩恵

という事で、ゴールドラッシュによってビクトリアを中心に、1850年代後半には全ての成人した白人男性に選挙権が与えられ、新しい民主主義的植民地憲法が制定されました。

金鉱の地表近くの金が掘り尽くされると、あとは硬い岩石を砕く専用機会と専門性が必要となり、多くの鉱夫たちは失業。

1860年代にはクイーンズランドで、1880年代にはノーザンテリトリーや西オーストラリアで金が見つかり小規模なゴールドラッシュは起こったものの、都市部に戻って定着した人たちも多くゴールドラッシュは徐々に終息していきました。

バララットは1918年まで、ベンディゴは1954年まで採掘が続けられていたそうです。

このゴールドラッシュを機にオーストラリアの人口増加に伴い、肉や小麦等の需要も増え、農場の数も急増。工業や産業の発展にも繋がり、道路や鉄道などの交通機関なども整備されていき、全体的な生活水準が向上しました。

そして、それによりイギリス本国からも認められ、ビクトリアは独立した植民地自治権を獲得しニューサウスウェールズから分離、これは後の州の原型となり、後々のイギリスからの独立にも繋がっていきます。

ヨーロッパ各国を始めその他の国々の技術や文化も流入し、中国人たちは集団を形成し、オーストラリアの開発に伴う労働力となりました。(これが後に、有色人を排除し白人至上主義を主張する白豪主義政策の元にもなる訳でもあるのですが。)

ちなみに、スワッグマン(Swagkman)という、荷物を背負って農場から農場へ季節労働を探す為に放浪して歩く人たちは90年代の不況時に特に多かったようです。

ブッシュレンジャーのネッド・ケリー (Ned Kelly) がビクトリアで活躍するのは、ゴールドラッシュが落ち着いてからですね。

最後に

ゴールドラッシュについては、このサイトを立ち上げてすぐ書きたかった記事ではありましたが、なかなかまとめる事が出来ませんでした。

今回この記事を書くに当たって何日もかかってしまい、書けなかった事もたくさんあります。
それくらいオーストラリアにとって大きな意味のあるゴールドラッシュなのです。

ちなみに今回この記事を書くに当たって、以前バララットで買った『The Goldfields』を少し参考にさせてもらいました。

この本は、子供用に書いてあるのか挿絵も多く、でもゴールドラッシュについて当時の様子が詳しく書かれていてとてもおもしろいんです。
オーストラリアの歴史に興味があれば、英語と歴史が一緒に学べて良いかもしれません。

小さく章に分かれているので、好きな所から読んでも良いですし、おすすめです。
The Seriously Weird Series

ゴールドラッシュ、どうでしたか?あなたの知り合いのオーストラリア人、先祖を辿ればゴールドラッシュでオーストラリアに来た人かもしれないですよ!