オーストラリアの基盤はゴールドラッシュで築かれた

オーストラリアの歴史を語る上では欠かせない重要な出来事であるゴールドラッシュ(Gold Rush) と言えば、ビクトリア州が最も有名ですが、始まりはニューサウスウェルズ州でした。

これによって当時オーストラリア人口が爆発的に増え、後のオーストラリア形成に多大な役割を果たしています。

アメリカは1848年〜1855年がゴールドラッシュだったのに対して、オーストラリアは少しズレた1851年〜。その頃の面影は、現在でも資料館やテーマパークなどで垣間見る事が出来ます。

そんなゴールドラッシュの歴史を辿ってみましょう。

 

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ゴールドラッシュの始まり

ゴールドラッシュとは、ある場所で金鉱が発見された事により一攫千金を夢見た人たちが世界中から押し寄せる現象の事です。

1850年代当時のオーストラリアはイギリスの植民地でまだ州も形成されていませんし、通貨もイギリスのポンドが使われています。でもややこしいので、ここでは普通にオーストラリアという呼び方をします。(植民地から連邦国として独立したのは1901年)

オーストラリアでゴールドラッシュが始まる1851年以前の白人人口は約7万7千人で、そのほとんどが過去70年間にわたってイギリスから送られて来た囚人、もしくは元囚人でした。

それがゴールドラッシュ後には1852年だけでも約37万人もの自由移民がオーストラリアに到着。彼らは多くの新しい技術や知識をもたらし、急成長する経済発展に貢献しました。

今でもオーストラリア独自のアイデンティティだと言われる仲間意識、マイトシップ (Mateship) も、このゴールドラッシュ時に生まれています。

ただ、アメリカでゴールドラッシュが始まった当時は、その影響で人手不足が問題となっていた時期もありました。

アメリカのゴールドラッシュも大きく影響

1848年にアメリカのカリフォルニア州で金塊が発見されゴールドラッシュが始まると、オーストラリアからも約6千人もの人々が一攫千金を夢見て出て行ってしまいました。(彼らは1849年にカリフォルニアを目指した人が多かったので、49sと呼ばれる事があります。) これによって、人口が減ってしまいます。

そこで政府は、彼らを呼び戻そうとニューサウスウェルズでも地質調査を開始しました。

実はゴールドラッシュが起きるかなり前からオーストラリアで金が見つかったという報告は、1839年のブルーマウンテンをはじめ何件もあったと言われています。しかし、政府は混乱を招く事を恐れて秘密にしていたようです。

そんなオーストラリアで金が見つかったと大騒ぎになったのは、次第にアメリカのゴールドラッシュも落ち着き、夢破れてオーストラリアに戻って来る人も増えて来た頃の1851年です。

最初の金が発見される

オーストラリアで金を最初に見付けたとされるのは、アメリカに渡ったものの、何も見付けられなかった49sのひとり、エドワード・ハーグレイブス (Edward Hammond Hargraves 1816 − 1891)という人物です。

Mr E.H. Hargraves

1851年1月にオーストラリアに戻って来たハーグレイブスは、アメリカで身に付けた金を採掘の技術や知識を活かして、鉱山を発見する仕事で政府から報酬をもらう事を考えました。

彼はニューサウスウェールズのバサースト (Bathurst) 近郊にあるマックワイアー川渓谷 (Macquarie Rever Valley) の地形や地質がカリフォルニアの鉱山に似ている事に目を付け、近郊に住んでいたジョン・リスターやウィリアムとジェームズ・トム兄弟らの協力を得て、彼らに金の探し方を教えたのです。

それから数週間も経たない2月12日、ルイスポンドクリーク (Lewis Ponds Creek) で、本当に砂金が5粒発券されました。

バサーストの町入口にある The Big Gold Panner

ハーグレイブスは3月にシドニーに戻り、政府に見付かった金を提出。トム兄弟の勧めもあり、シドニー・モーニング・ヘラルド社に手紙も送っています。

しかし、数週間後に政府から£10,000ポンドを受け取った彼は、リスターやトム兄弟と報酬を分け合う事を拒否。更に金が採れた場所を旧約聖書に出て来る黄金郷にちなんでオフィール (Ophir) と命名し、彼らの意見を無視して詳しい場所を発表してしまいました。

これにより、5月15日にはオフィールに300人以上の人たちが殺到。こうして最初のゴールドラッシュは始まったのです。

ビクトリア州のゴールドラッシュ

Map

さて、ゴールドラッシュで困るのは町に残された人たちです。

ニューサウスウェルズでの騒ぎで、ビクトリアにいた多くの労働者までが自分の仕事を投げ出して金鉱に行ってしまい、ビクトリアの中心部メルボルンでは多くの店は閉まり、町の機能が停滞するほどの事態にまで発展しました。

町だけではなく、農家の働き手がいなくなってしまうと当然作物や家畜の世話をする人がいなくなり、食料が不足する懸念もあります。

そこで政府は「メルボルンから200マイル以内の場所で金鉱を見つけた者には£200の賞金を出す!」と、人々をビクトリアに呼び戻しました。それは、当時羊飼いや鍛冶などで生計を立てていた人たちにとって、給料の10年分の金額だったようです。

ビクトリア州でも金が発見される

それから間もなく1851年8月にビクトリアでも金が発見されました。

次々と鉱山が見つかり始め、それまで羊や家畜、カンガルーくらいしかいなかった場所に、何千人もの人々が集まって来たのです。

特にバララット (Ballarat) からベンディゴ (Bendigo) までの一帯は、後にゴールドフィールドと呼ばれるほど多くの鉱山が見付かりました。

これにより、結局男性人口の半分は都市部から消えてしまったと言われます。

ゴールドラッシュの勢いはとどまる所を知らず、イギリス、アメリカ、中国など様々な国から自分の意思で移民してくる自由移民が増えていき、もともといた囚人系の人たちの人数を上回って行きました。(囚人移民制度が廃止されたのは1953年ですが、あまりにも多くの人が一気に押しかけるので、一時囚人を送るのも停止したのだとか。)

この時期にオーストラリアにやって来た人たちは政治にも関心のある中産階級の人も多く、政治や経済などにも大きく影響を与えて行く人たちも増えて行きました。

1851年に7千7万人だったオーストラリアの人口は、1858年には約7倍の540,000人にまで増加。中国人も4万人ほどいたと言います。

鉱山周辺の暮らし

再現された鉱山付近の様子 (Sovereign Hill)

金鉱周辺には多くのテントや小屋が建ち、町の中心部では宿泊施設を建てる大工や金を採掘する道具を作る鍛冶屋などが大忙しになりました。

ただ、人口増加により泥棒や強盗などの犯罪も増加。

採掘者たちは身を守るためや、高額な経費を分担するためなどの理由からグループを形成し、集団で行動するようになっていきました。この時に生まれた仲間意識がマイトシップです。

様々な決まり事

政府も混乱を避けるために、採掘の規制、採掘許可書の発行、報奨金を支払いなど、様々な取り決め (Goldfields Act) を作りました。

ひとりが採掘出来る金鉱のエリアを制限し、平等に配分。採掘したい者は許可証を月単位で支払わなければならず、彼らは日没の合図と共に、作業を終わらせてテントに戻らなければいけませんでした。

他にもキリスト教で大切にされている安息日 (日曜日) は仕事をせずに必ず休むという決まりもあり、日曜日にはボクシング大会が開かれたりクリケットをしたりして楽しんでいたようです。

最初は金鉱でのアルコール販売も禁止にしたのですが、闇で販売する店が増えただけで全く効果がありませんでした。

あきらめた政府がアルコールを解禁にした途端に100軒にも及ぶパブが建ち、最終的には500軒にもなりました。アルコールは喉が渇く金鉱の仕事をする人たちにとって、大切な存在だったと言われます。(余計に喉が渇きそうですが。)

バララットのメイン通りにあったパブのいくつかは、ショーのあるシアターも兼ねており、特にCharlie Napierはシェークスピアからパロディ劇まで上演する大人気のパブだったそうです。

そしてパブが増え賑わう事によって、結果的に夜道の危険が減りました。

アウトバックでは深刻な水不足も

しかし、乾燥した内陸部の暮らしは決して楽なものではなく、乾燥した内陸部では水が不足し、沼や池の水は衛生的とは言えず、質の悪い水で病気になる人もいました。

それでも金鉱周辺の街は次第に人口が増えていき、少なかった女性の数も5年のうちに2倍になり、子供も増えて少しずつ学校や教会や図書館などが建設されています。

1851年に6,000人だったバララットの人口も、5年後の1859年には40,892人にもなっていました。

それに伴って飲料水も少しずつ改善されてはいたのですが、1860年には干ばつに見舞われ、きれいな水が手に入らなかったために、わずか3ヵ月のうちにバララットだけで10歳以下376人の子供が亡くなったりもしています。

その後も幾度か干ばつの危機に晒され、水は深刻な問題でした。

怒った民衆によるユーレカ砦の反乱

そんな厳しい生活の中、成功する人はほんのひと握り。ほとんどの人たちが毎月の支払いに追われる生活でした。

1851年11月に採掘許可証はそれまでの3倍である30シリングに値上がりし、稼ぎとは関係ない毎月の支払いは生活が苦しい人たちにとって大きな負担となり、政府のやり方に不満を持った鉱夫達による抗議運動が度々起こっていました。

政府側は許可証を持っていない者を容赦なく逮捕したり、不当な罰金の要求など厳しい取り締まりをし、鉱夫たちの不満はどんどん募っていきます。

そして1854年10月、ついにオーストラリア最大の民衆による武装蜂起と言われるユーレカ砦の反乱(Eureka Stockade Riot)のきっかけとなる事件が起きました。

ひとりの鉱夫がユーレカホテルのそばで死亡しており、容疑をかけられたホテル所有者らが起訴されましたが、結局無罪となったのです。

鉱夫たちの権力者に対する不満は最高潮に達し、10月17日に大集合を開き、ユーレカホテルを焼き払う騒動となりました。
そして、その罪でより3人の鉱夫が逮捕されます。

11月11日に大集合で、鉱夫たちはバララット改革連盟を結成。

23日にホテル所有者の有罪判決が決まると、逮捕された3人の解放を政府に要求しましたが認められず、11月28日には警察や軍隊と小競り合いを起こす騒ぎにまでなります。

12月、約1000人の鉱夫たちは革命の象徴となる南十字星の描かれた旗を掲げ、バララットにあるユーレカの丘に砦を築いて反抗。

革命連盟によりデザインされたユーリカの旗

12月3日の早朝、砦の中にいた150人の鉱夫たちは、280人の軍人や警察に攻撃され、軍隊側の死者5人に対して鉱夫側に30人。13人が逮捕されます。

しかしここで大逆転が起こりました。

この反乱を機に作られた王立調査委員会が調査に乗り出し、鉱夫たちは無罪に。植民地政府のやり方は上から批判されました。

従来の採掘許可証は廃止となり、選挙権ももらえるようになり、金鉱の運営にも携われるようにもなったのです。

このユーレカ砦の反乱と呼ばれる事件は、オーストラリアの民主主義とアイデンティティの確立を象徴する鍵となった出来事だったと言われています。

現在、バララットのユーレカ砦の築かれた場所はユーリカ記念公園 (Eureka Memorial Park)になっており、記念碑が建っています。

バララットの町

そしてメルボルン市内の展望台 ユーレカタワー (297m) の名前は、このユーレカ砦の反乱に由来するそうです。

タワーの頂上部の金色は金鉱山を、赤い筋は騒動で流れた血を、ガラス窓の青色はユーレカの旗を表しているんだそうです。

ユーレカ、ユーリカ、ユレーカ、ユラーカ、いろんな日本語表記を見ますが 英語ではEureka [juəríːkə]、文中ではユーレカで統一しました。

ゴールドラッシュの恩恵

という事で、ゴールドラッシュによってビクトリアを中心に、1850年代後半には全ての成人した白人男性に選挙権が与えられ、新しい民主主義的植民地憲法が制定されました。

金鉱の地表近くの金が掘り尽くされると、あとは硬い岩石を砕く専用機会と専門性が必要となり、多くの鉱夫たちは失業。

1860年代にはクイーンズランドで、1880年代にはノーザンテリトリーや西オーストラリアで金が見つかり小規模なゴールドラッシュは起こったものの、都市部に戻って定着した人たちも多くゴールドラッシュは徐々に終息していきました。

バララットは1918年まで、ベンディゴは1954年まで採掘が続けられていたそうです。

このゴールドラッシュを機にオーストラリアの人口増加に伴い、肉や小麦等の需要も増え、農場の数も急増。工業や産業の発展にも繋がり、道路や鉄道などの交通機関なども整備されていき、全体的な生活水準が向上しました。

そして、それによりイギリス本国からも認められ、ビクトリアは独立した植民地自治権を獲得しニューサウスウェールズから分離、これは後の州の原型となり、後々のイギリスからの独立にも繋がっていきます。

ヨーロッパ各国を始めその他の国々の技術や文化も流入し、中国人たちは集団を形成し、オーストラリアの開発に伴う労働力となりました。(これが後に、有色人を排除し白人至上主義を主張する白豪主義政策の元にもなる訳でもあるのですが。)

ちなみに、スワッグマン(Swagkman)という、荷物を背負って農場から農場へ季節労働を探す為に放浪して歩く人たちは90年代の不況時に特に多かったようです。

ブッシュレンジャーのネッド・ケリー (Ned Kelly) がビクトリアで活躍するのは、ゴールドラッシュが落ち着いてからですね。

ゴールドラッシュに関わる観光地

もしも、ゴールドラッシュ全盛期の鉱山採掘現場や町の様子を体験したければ、バララットにその頃の町を再現したソブリンヒル (Sovereign Hill) というテーマパークがあります。

Sovereign Hill
39 Magpie Street, Ballarat, Victoria, 3350 Australia
http://www.sovereignhill.com.au

ここでは登録して許可証をもらえば、実際に砂金採掘体験も出来ます。

砂金などの細かい金を探す事をPanningと言い、水の中の土や小石を揺すって洗い流し、比重の重い金だけをより分けて探します。

最後に

今回この記事を書くに当たって、以前バララットで買った『The Goldfields』を少し参考にさせてもらいました。

この本は、子供用に書いてあるのか挿絵も多く、でもゴールドラッシュについて当時の様子が詳しく書かれていてとてもおもしろいんです。
オーストラリアの歴史に興味があれば、英語と歴史が一緒に学べて良いかもしれません。

小さく章に分かれているので、好きな所から読んでも良いですし、おすすめです。

http://www.seriouslyhistory.com.au/