オーストラリア先住民アボリジナルの人々に起こった悲しい侵略の歴史

オーストラリアの歴史を語る上で、オーストラリア先住民アボリジニの人たちについての話題は避けては通れません。

私は幸運にもオーストラリアにワーキングホリデーに来た1カ月目でそういった黒い歴史を学ぶ機会がありました。

インターネットもそんなに普及していなかった当時、英語も最低限の意思疎通が出来るくらいのレベルでしたが、日本では知り得なかった情報を理解した時は驚いたものです。

あまりにも重いので、記事として書くのにはずっと抵抗がありました。

ですが、日本人のワーキングホリデーの人や学生さん、永住者、私の周りを見渡すと、そういう歴史を知っている人は珍しいですし、そもそも興味がない人も多いように感じます。

しかし、オーストラリアという土地にいるのなら、せめてもう少し過去を知る人が増えて欲しい、そんな思いでこれを書くことにしました。

 

※ アボリジニという言葉は現在のオーストラリアでは差別用語という認識になっていますので、アボリジナルや先住民という言葉を使うのが望ましいです。

私自身の実体験

一般的にオーストラリア先住民 (アボリジナル) と聞くと、どんなイメージがあるでしょうか。

観光で来た人にとっては観光産業にも貢献している人たちと思うかもしれませんし、現地に住んだことのある人の中には怖いのであまり近づかない方が良いという認識の人も多いかもしれませんね。

では、まずは私が2006年にオーストラリアに来てから実際に体験したことや、見聞きした来たことについて話します。そこから私の認識が変わったので。

ケアンズではよくない噂が絶えなかった

私がオーストラリアで初めて住んだ都市はケアンズでした。

ケアンズで目にしたのは、多くのアボリジナルの人たちが昼間からパブでお酒を飲み、観光客やワーホリの人たちにお金を無心してくる光景です。

滞在先のホストファミリーは、右も左も分からない私に町にいるアボリジナルの人たちにはくれぐれも気をつけるようにと念押しされ、「彼らにお金をねだられても絶対に無視する」「暗くなったら必ずタクシーで帰って来る」など色々警告されました。

当時はインターネットが気軽に使える時代ではなかったのですが、ワーキングホリデーのネットワークはすごいです。

1ヶ月間のホームステイが終了し、シェアハウスに移って住み始めると、ますますよくない噂が日常茶飯事に流れてきました。

「数件隣のシェアハウスにアボリジナルの人が入って来て物を取られたらしい」とか「夜に日本人ワーホリの女の子が寝ていたら、部屋に入って来て荷物を物色するアボリジナルの人に気付き、抵抗。そして殴られたショックで帰国した」とか、私の実際の知り合いもキッチンで勝手に入ってきたアボリジナルの人に鉢合わせして目が合ったそうです。(向こうの方から逃げて行ったそうですが)

その頃私が住んでいたショッピングセンターの裏手はシェアハウスが集中していて、その周辺はワーホリの人たちが多かったというのもあるかもしれませんが、ワーホリが被害に遭ったという話は絶えず、私のシェアメイトも家の近所で危うくお金を盗られそうになったそうです。

襲われないように自転車に乗って逃げれば大丈夫か?と言えばそうでもなく、自転車ごと倒されたり木の上から飛んで来るケースもあると聞かされ、恐ろしさに身震いしたものでした。

私はかなり気をつけていたのもあって、泥棒に入られたものの (警察にも来てもらいましたが、犯人は結局分かりませんでした) 直接の被害はなかったのですが、とにかくこれが私が最初に見たオーストラリアです。

もう10年以上前の話ですけどね。

歴史や文化に触れた瞬間

ただラッキーだったのは、語学学校で『Australian Study』という選択授業を選んだので、そこでオーストラリアの文化やアボリジニの歴史を色々と知る事が出来ました。英語は別に伸びませんでしたが、この授業は後々まですごく役に立ったので感謝しています。

過去の歴史的背景を知ってしまうと、町にたむろしている彼らを一方的に責められないなと、複雑な気分になったものです。

そもそも “アボリジニ (Aborigine)” というのは先住民という意味であって、民族の名称ではないということも、その時知りました。

当時は普通にアボリジニという言葉が使われていたのですが、アボリジニとひとまとめに呼ばれている人たちは、かつてオーストラリア全土に700民族以上、250以上の言語が使われていたと言われる、文化や生活習慣も異なった人たちです。

そんな彼らのネガティブな側面が目を引くケアンズの街でしたが、学校の授業やガイドブックに出て来るアボリジニたちは、まるで別世界のように思えました。

観光産業にも貢献

そんな人たちがいる反面、彼らは観光産業にも数多く貢献していて、おみやげ屋さんで必ず売っているアボリジナルアートの工芸品もそうですし、ケアンズのジャプカイ族のショーもそうです。

ここではジャプカイ族の人たちがブッシュフードの説明をしてくれたり、ブーメランの投げ方を教えてくれたり、パフォーマンスを披露してくれたりと色々なアボリジニ体験が出来ます。

アボリジニの雇用問題で、よく西洋人と全く異なる考え方が指摘されるのですが、この人たちは普通に西洋人と同じような働き方をしてるように見えました。

顔立ちも一般的に言われるアボリジニとは少し違うように見えたので、もしかしたら白人の血が入っている人たちなのかもしれませんが、そこまで私は分かりません。

そして、ものすごく感銘を受けたツアーがあります。

ケアンズより北にある、特別な免許を持った人としか入れない神聖な山に入るツアー(現在はもうやってません) なのですが、日本ガイドの方に色んな事を教えてもらい、私はすぐにその生活や考え方に魅力を感じ、憧れの気持ちさえ持った瞬間でした。

その時のツアー

Down Under オーストラリア

これは私が2006年11月に参加したアボリジニツアーの話です。 このツアーは、私 […]…

一緒に交流

その後、ケアンズから北上したケープヨークの手間にあるクックタウン (Cooktown) という小さな町で3カ月働いたのですが、そこは人口のほとんどがアボリジニで占める町でした。

そこのファームで働く人たちの多くはワーホリなどの外国人でしたが、アボリジニの人も何人かいて一緒に働きました。

毎週金曜日は楽しみにしていたパブのハッピーアワー (時間内だけパブのビールが安くなる) の日で、アボリジニの人たちと知り合って楽しく飲んだりもしました。

ケアンズでは怖いイメージの人たちでしたが、ここの人たちはとてもフレンドリーで穏やかだったのです。

 

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悲しい歴史

そんなアボリジニの人たちの歴史をたどってみると、彼らは1788年に白人たちがオーストラリア大陸にやって来るよりも遥か昔、今から約5〜6万年前にはもうそこで生活していたと言われています。

自然を崇拝し一体化しながら狩猟や植物採取で生活し、先祖代々『ドリームタイム』という天地創造の神話を語り継いでいた事などは共通しているものの、異なる文化や言語を持つ多くの民族がひとつの大陸に暮らしていました。

悲劇は18世紀に白人たちがやって来てから始まりました。

西洋人が上陸した事によって、かつて30〜100万人いたと推定される先住民たちは10分の1に激減したと言われています。

これは、ヨーロッパから持ち込まれた疫病によるものや土地が奪われ食料源が減った事などもありますが、一番の原因は迫害でした。

初めは良好な関係を築こうと、お互いが共存する事を試みていた時期もあったのですが、次第に白人たちは彼らを「原始的生活をして文化を持たない劣った民族」と決め付け見下すようになっていったのです。

先住民の事をアボリジニと呼び、彼らを標的にしたスポーツハンティングまで行われ、動物扱いされていったのです。

これによって多くの原住民たちが殺され、どんどんと水の少ない過酷な環境の内陸部へと追いやられていきました。ついには消滅してしまった民族も存在します。

盗まれた世代

そして、更なる悲劇は続きます。

19世紀中頃にアメリカでは奴隷解放運動が叫ばれ、アボリジニの人権が問題になって来たので、今度は人権という名のもとに優生学思想に基づいた同化政策が始まりました。

この同化政策は、アボリジニたちに白人の教育を施して白人社会と同化して生きるように教育しようという政策で、文化を持たない民族は野蛮で不幸という価値観から来ています。そして、白人との混血化が進めばアボリジニの血は分散されて消滅させられるという策略もありました。

政府は純血や混血のアボリジニの子供たちを親から強制的に引き離して収容所に入れ、隔離された子供たちの数は全体の約3分の1、7万〜10万人にのぼったと言われています。

収容所でキリスト教を信じさせられ英語しか話す事が出来なかった子供たちは、当然自分たちの言葉や文化、アイデンティティを失っていきました。

この世代は盗まれた世代 (Stolen Generation) と呼ばれています。

オーストラリアが1901年にイギリスから独立して連邦国になると、更に白人以外の人間を排斥する白豪主義政策 (White Australia policy 1901 – 1973) で優先学思考が強化されていきました。

同化政策は1970年ごろまで行われていたと言われていて、この政策によって、二度と肉親に会えなかった人たちや行き場を失った人たちがたくさんいます。

収容所では精神的、肉体的な暴力が行われる所もあったそうで、大切な子供の時期に親元から引き離されて過酷な生活を強いられて育ったら、心が病んでも不思議ではいでしょう。自分の出生地さえ分からなければなおさらです。

もちろん過去の傷を乗り越えて暮らす人たちもいますが、傷が完全に癒えるのは難しい人もいるでしょう。

そんなアボリジニの人たちは、長い間国民として認められる事はなく、正式に国民として認められたのは1967年になってからでした。

実話を基にした映画

前述したケアンズの語学学校に通っていた時、選択授業で実話を映画にしたアボリジニの話『Rabbit-Proof Fence(裸足の1500マイル)』を観ました。

これは施設に強制的に収容された少女たちが、決死の思いで収容所から逃げ出し、西オーストラリアの広大な砂漠に張られているウサギよけのフェンスを頼りに親元に戻る話です。

1500マイルとはどのくらいか?1マイルが1609kmだから、2400km。
日本列島北から南まで約3000キロらしいので、どれだけ歩いたのか思うと気が遠くなる距離です。

確か逃走中にかくまって協力してくれた白人女性も登場したと思うのですが、それは第二次世界大戦中に脱走した敵国の日本兵をかくまったオーストラリア人の話を思い起こされ、世の中全ての人が悪ではないんだとは思うのですけど…。

どうも当時の政府側の言葉や態度などの記録を読んでいると、アボリジニの人たちを自分たちと同じように痛みを持つ血の通った人間として見てないように思うんですよね。何故なんでしょう。

人種差別は世界中の国々でも幾度となく問題になって来ました。
アフリカやアメリカの歴史を考えれば、この時代の白人 > 有色人という価値観は悲しいですが特別珍しい事ではなかったのかもしれません。

 

Rabbit-Proof Fence(裸足の1500マイル) 感想

Down Under オーストラリア

今回は実話に基づいて2002年に制作された『Rabbit Proof Fence […]…

やっと公開された過去

アボリジニ側もただされるがままという訳ではなく、何とか西洋文化に認めてもらおうと、白人側を儀式に招待したり彼らの文化や文明を示したりと努力はしてきたようですが、根深い差別意識を拭うのは難しかったようです。

そして、この盗まれた世代の実態を一般の人たちが知るようになるまでには、更に年月を重ねた1997年まで待たなければなりませんでした。

1997年5月26日、連邦議会で680ページに及ぶ報告書『Bringing them Home』が発表されると、その同化政策の悲惨な現状にオーストラリア国内で大きな議論となりました。

翌年から謝罪の意味を込めて、5月26日はNational Sorry Dayと定められましたが、当時首相だったジョンハワード(John Howard)首相は謝罪を拒否。(遺憾だが謝らないという姿勢。)
それどころか否定的発言をし、翌日怒った人たちがハーバーブリッジで大きなデモを起こす騒ぎも。その中には白人の姿もあったそうです。

アボリジニの問題については複雑な事情も絡み合い、政府にとっても長い間大きな課題となっています。

謝罪として補助金も支給して来ましたが、この補助金で昼間からお酒を飲んだり、足りないので強盗まがいな事をしたりと問題は後を絶ちません。

そして貧困や環境のせいで十分な教育が受けられず、次に世代もまた同じ事を繰り返すと言う悪循環を繰り返したり、そもそも教育に対して不信感を持っているので学校にも行かない人も多いと言います。

文化を継承している人たちも、西洋人とは時間の感覚も何もかもの価値観が違い過ぎて、雇用するのも難しいという話も聞いた事があります。

西洋社会に順応する事が自分たちの文化の否定になってしまうという想いもあるようで、いくら住居を与えてもらったり学費を免除してもらったりしても、今までの事を考えればすんなりといかないのは無理もないかもしれません。

200年もの時を経て

そして2008年2月13日、アボリジニの人たちにとって大きな意味のある日となります。
当時の首相だったケビン・ラッド(Kevin Rudd)が初めて政府として公の場で謝罪したのです。

この演説を聴くために3000人もの人たちが遠方から集まり、オーストラリア各地の巨大スクリーンでも中継されたと言います。

演説の中でラッド首相は「Sorry」と何度か繰り返し、観衆は涙を流したり何とも言えない笑顔を見せたり、息を飲むような緊張と喜びが私にも伝わってきて印象的でした。

200年以上経って今更謝罪されても、大切だった貴重な時間は二度と戻って来ません。
それでも多くの人が、そのたった一言を長い間待っていたんだなあ、と彼らの表情を見ていて思いました。

「初めて否定されてきた日々が認められた気がした。」と語る人がいた事からも分かるように、これでやっとスタート地点に立てる人も多いのではないか、そんな気がしました。

差別意識

現在のオーストラリアでは差別は全くないかと言ったら、そんな事はありません。

何年か前にあるホテルでアボリジニを宿泊拒否してニュースに取り上げられて問題となっていましたが、そんな実際的な差別ではなくても、心の奥に潜んでいる無意識な差別意識を言葉の端々で感じてしまう事もあります。

でもだからと言って全ての人がそうだとは全く思わないし、人種ではなく危険な行動を取るから好きではないのだとか、補助金を授与するからには社会に馴染む努力をするべきだとか、そういう言い分も分かりますが、なかなか一筋縄ではいかない根の深い問題のように思います。

差別意識というものは、3歳までに染み込んでしまったら大人になってから完全に取り払うのは難しいそうです。理性では良くないと分かっていても、心の奥で無意識に差別してしまう。

そういうものも差別に入るとしたら、私たち日本人だって本人が気付いてないだけで、結構なレイシスト(差別主義)だと思いますし、色んな所で差別をしているはずです。
でもそれらを責めたところで意味がない気もします。

それでも

残虐な歴史はオーストラリアだけに限った事ではありません。
人類は長い歴史の中で、今では信じられないような酷い事をして来ており、この事実は変わらないです。

でも一番大切なのは今だと思います。
そして過去に起こった事を知る人が増えると良いなと思っています。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。