オーストラリアで初めて稲作を始めた日本人

オーストラリアで初めて稲作を始めた日本人

オーストラリアのスーパーマーケットでは、普通に手頃な値段でジャポニカ種のお米が売られています。

でも、オーストラリア人は主食というほどお米を食べる訳ではないのに、不思議に思った事はないですか?

意外と知られていないかもしれませんが、それにはオーストラリアでの稲作は明治時代に基礎を築いてくれた日本人の苦労が影にあります。

以前オーストラリアのお米について書いたのですが、今回は以前書ききれなかったその背景にもっと焦点を当てて、詳しく見てみたいと思います。

以前書いたオーストラリアのお米についての記事はこちらをご覧ください。
オーストラリアのお米事情

 

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オーストラリアで一番最初の稲作の地

ビクトリア州のSwan HillからMurray Valley Highwayを西北へ25キロほど行った所に、うっかりすると見落としてしまいそうなくらい小さな標識があります。

“Australia’s First Rice Farm”
オーストラリアで一番最初の稲作の地の標識です。

そのライスファームに続く小さな道路には “Takasuga Road” と日本人の名前が付けられています。

小さな標識に沿って小さな道路を入って行くと、そこには静かに石碑が建っています。

石碑は小さいですが、ここは現在オーストラリアシェアNo1、世界でも有数のお米関連食品会社 “Sun Rice” の基盤を作った高須賀 譲(ゆずる)という人由来の場所です。

この石碑、以前は違う場所にあったようなのですが、2014年にここに一度移されたので、私の持っていた10年前の『地球の歩き方』の写真とは石碑の形が違っています。

オーストラリアで最初の稲作の歴史は、日本が明治時代だった1900年代まで遡るのですが、この石碑が建っているViniferaという地に100年ほど前、大変な苦労を重ねて今のお米の基盤を作った日本人がいたのです。

この場所は、毎年春の雪解けの水で洪水が起きる為に長い間使えない場所として放置されていた土地で、高須賀 譲が苦労して堤防を完成させたと言います。

ちょうどこの石碑のある場所も、ある年は大洪水で水田も全て流されてしまい、数カ月間船を漕いで行き来しなければならないほど酷かったそうです。

高須賀 譲の本

この高須賀 譲さんの物語は、オーストラリア在住の松平みなさんという方が『穣の一粒』という本にしています。

譲の一粒
松平みな著 愛媛新聞社

この本の著者である松平みなさんは、1987年にニューサウスウェールズ州のGosfordに移住された方で、教鞭を執る傍らボランティアで通訳などにも取り組まれていて、1998年には「環太平洋協会」という非営利団体を設立。10年間理事を務めるなど、オーストラリアと日本の交流の橋渡しとして貢献されて来た方です。

『譲の一粒』はそんな彼女の3冊目の本。

『穣の一粒』では、恵まれた境遇のすべてを投げ打ってオーストラリアに渡り、逆境の中で米作りを成功させた明治時代の日本人の精神力の強さと、その時代の躍動感に焦点を当てました。なぜそこまで苦労して白豪主義のオーストラリア社会に溶け込み、稲作を通してこの国に貢献しようとしたのか。明治の男の矜恃と、それを支えた女の強さを伝えたいと思います。
http://nichigopress.jp

彼女の言葉にもあるように、白豪主義(White Australia policy)という白人が最優先、その他の人種を排除する政策が導入されていたあの時代に、日本人が稲作を成功させるのは今では想像も出来ないほどの苦労があった事でしょう。

こ残念ながらこの本は電子書籍化されていないのですが、シドニーの紀伊国屋に置いていました。Amazonでも購入出来ます。

高須賀 譲という人の人生

では、その高須賀 譲という人は一体どんな人物だったのでしょうか。

高須賀 譲(1865-1940)は、愛媛県松山市の大名家に仕える料理長の一人息子として生まれ、18歳で家督を受け継ぎ、慶應義塾を卒業後、海外への関心からアメリカに留学して学位も取得しました。
(ちなみに彼の英語名は ”ジョー” と言い、英語の記載はYuzuruではなくJo Takasugaとなっています。)

帰国後は衆議院議員選挙に当選し、後に結婚。
長男と長女をもうけ、順調な人生を送っていました。

そんな彼でしたが、1905年に新たな挑戦を始めます。
家族を連れてオーストラリアのメルボルンに渡った時、彼は40歳。

当時の “白豪移民制度法” という白人最優先主義真っ只中のオーストラリアで輸入業を営む傍ら、オーストラリア人に日本語も教えていたそうです。

ある日彼は、オーストラリアの土地が日本の米を育てるのに適した環境である事に気付きます。

オーストラリアで米が育てられれば、日本から大量に輸入する必要がなくなります。
充分に稲作の知識があった彼は、当時の州知事等を説得し、最終的に同年7月にマレー川流域スワンヒル下流の土地で稲作が出来る事になりました。

こうして日本から持ってきた米の種を蒔き、オーストラリアで初の稲作が開始されました。

しかし、それは想像以上に大変な事でした。
芽が羊に食べられたり水不足に見舞われたり、逆にマレー川が氾濫して大洪水になった年もありました。
その土地で米が収穫できるようになるまでに、約6年という期間を費やしています。

堤防工事を命がけで手掛け、ついに1918年に “ジャップ・バンク” と呼ばれる堤防が完成。
この土地を永久に利用できるように奔走するも、何度も却下。しかし努力の甲斐あって、最後には土地の自由保有権を得る事に成功します。

こうして現在のオーストラリア産のお米の基礎が築かれていきました。

米が軌道に乗るとブドウやトマトの栽培にも手掛けましたが、69歳で引退、2人の息子に事業を任せます。
1940年、義母の葬式に参列するために帰国し、そのまま自身も心臓発作で亡くなりました。享年75歳。

譲の子孫たち

オーストラリアに残った彼の奥さんと3人の子供たちは、オーストラリアの地に根を下ろしてそれぞれ活躍しました。

長男はスワンヒル病院の総長に選ばれ、ハントリー郡の地方議員や郡長も務めたそうです。長女は小学校の教師をした後、結婚して子供をもうけ、スワンヒル主婦協会のレギュラーラジオ番組に出演していた事も。おふたりとも70年代に亡くなりました。
そしてオーストラリアで生まれた次男は、第2次世界大戦にオーストラリア兵として従軍し活躍し、現在はアデレードに住んでいて、7人のひ孫がいるそうです。

おわりに

100年も前に活躍した日本人の功績は、現在でもしっかりとオーストラリアに根付いています。
そんな彼らの情熱やエネルギーは、時を超えて私たちにも伝わってくる気がしませんか?

この話の舞台でもある Swan Hillについては別記事にしていますので、もう少し知りたい方はこちらもどうぞ。
19世紀に開拓者で賑わった町Swan Hill

参考資料: http://www.konishi.co.jp / http://www.sunricejapan.jp / http://nichigopress.jp / http://gogotours.com.au