流刑地と言われたオーストラリアの囚人たちについて歴史を紐解いてみる

オーストラリアに関するネガティブなニュースが流れた時、必ずインターネットで「オーストラリアは流刑地だからw」とか「先祖は囚人だからな」と言っている人が必ず現れます。

確かにオーストラリアという国はイギリスで犯罪を起こした人が送られる流刑地としてスタートし、80年間にわたって多く人たちが送られて来ました。

ただ、よく調べてみるとオーストラリア人の祖先が囚人とは一概には言えないんですよね。

今回はそこら辺を深掘りしてみましょう。

そもそもオーストラリア人とは誰?

Australia

今でも時々オーストラリア人=白人と思っている人がいるようですが、その情報は古いです。

もともとはイギリスの植民地でありイギリス文化が色濃く残っているオーストラリアですから、ひと昔前のオーストラリアのイメージは、独特の訛りのある白人でした。

ですが、現在4人に1人が外国生まれと言われるこの国は、色んな人種がいる多民族国家です。もちろん西洋人がオーストラリアに来るもっとずっと前 (6万5千年前) から住んでいた先住民であるアボリジナルの人たちの存在も忘れてはいけません。

囚人の子孫はどれくらいいるのか

オーストラリアは囚人の流刑地として始まり、1788年から1868年までの間に16万人以上の囚人がイギリスからオーストラリアに送られたと言われています。

ただ、初めから自由移民としてオーストラリアに来た人たちも普通にいましたし、1851年以降のゴールドラッシュで各国から人が集まり人口が爆発的に増えました。

それに戦後は多くのヨーロッパ移民を受け入れ、最近ますます条件が厳しくなっているにも関わらず、相変わらず移住して来る人が絶えない人気国でもあります。

Eri
Eri
それなのに、未だに「オーストラリアは流刑地w」という人が絶えないのは、興味深い現象だなあと思って見てます。

まあ、確かにオーストラリアで文化遺産と呼ばれているものや観光名所は、当時の囚人にゆかりがあるものが多いですし、実際祖先が囚人である事に誇りを持っている人もいますからね。

ただ、特に都市部にいると、生粋のオーストラリア人に会うよりも移民系の人に会う回数の方が多いかもしれません。

囚人たちの罪は何だったのか

“囚人 (Convict)” と言うと、一体どんな悪い事をした人たちなんだろう⁉︎ と思ってしまいますが、実際は貧しさのためにパンなどを盗んだ罪で捕らえられたような人たちが多かったようです。

もちろん中には政治犯や凶悪犯罪など重大な罪を犯した人たちもいましたが、そういう人たちが投獄される場所とは分けられていました。

オーストラリアが流刑地に選ばれた経緯には、イギリスの産業革命やアメリカの独立戦争などが多く関わっています。

そちらは別記事に書きましたが、簡単に言うと産業革命で効率化が重視されるようになり、過酷な労働や安い賃金で雇われた人たちが増えたせいで軽犯罪が頻発するようになった事、アメリカの独立戦争によりそれまでアメリカに送っていた囚人たちを送る事が出来なくなりイギリス国内に溢れてしまった事で流刑地を早急に探す必要があったのです。

そこで目を付けたのが、1770年にジェームズ・クックが発見した、当時はまだ未知の大陸だったオーストラリアでした。

囚人たちの歴史

シドニー王立植物園にあるアーサー・フィリップ像

1787年5月13日、当時のイギリス国王ジョージ3世の命を受け、オーストラリア植民地の初代総督となるアーサー・フィリップ (Arthur Phillip) が11艘の第一船団を率いてポーツマスを出航。

記録によると、この時に船に乗っていたのは1350人で、うち囚人は780人 (女性は約20%) だったそうです。

8カ月にも及ぶ過酷な航海の末、ついに1788年1月26日にシドニーコーブに到着。ここから白人によるオーストラリア大陸植民地支配の歴史が始まりました。(現在オーストラリアデイに定められている日です。)

この後も1790年に第2船団、1791年には第3船団と定期的にイギリスから囚人が連れて来られています。
囚人ではない最初の自由移民が来れるようになったのは1793年からです。

1788年から囚人輸送が廃止される1868年までに受け入れた囚人は、ニューサウスウェールズが全体の約50%、タスマニアが約42%、西オーストラリア6%、ビクトリア2%となっています。クイーンズランドにも多少送られましたが、南オーストラリアだけは受け入れていません。

囚人はオーストラリアの基礎を築くための貴重な労働力だった

流刑者たちはブッシュを開拓して道路などを建設していくなど、植民地発展の為の重要な労働力でもありました。

一般的な刑期は7年で、晴れて自由の身となったエマンシピストと呼ばれた人たちもいますが、中には逃亡してブッシュレンジャーと言われる盗賊になっていった人たちもいました。

しかし労働力は足りず、なかなか植民地は発展出来ませんでした。

オーストラリア大陸が流刑地となってからすぐヨーロッパでナポレオン戦争が勃発し、イギリスは総力をあげて戦争に参加した為、囚人をオーストラリアに送る事が出来なかったのです。

1815年にナポレオン戦争が終結した時には更に事態は深刻で、兵士として駆り出された労働者たちが故郷へ戻った時にはイギリスの町では多くの失業者で溢れ、犯罪率も増加しました。

これにより政府は一気に流刑囚をオーストラリアへ送り、オーストラリアの人口は5年ほどで2倍にまで増加。

この人口増加により、囚人たちを管理する宿舎の必要性を感じたニューサウスウェールズ5代目植民地総督ラクラン・マッコーリ (Lachlan Macquarie) は、1819年に建築家だった囚人のフランシス・グリーンウェイ (Francis Greenway) に依頼してハイドパークバラックスという男性用宿舎を建築しました。

ハイドパークバラックス

このハイドパークバラックスに収容されていた人たちは、主に窃盗罪の人が大半だったようです。

この建物は1948年以降は女性移民の保護施設、政府の施設としても使用されましたが、現在は博物館になっていて、オーストラリア全土に点在する11カ所あるオーストラリアの囚人遺跡群 (Australian Convict Sites) のひとつとして2010年7月にはユネスコ世界文化遺産に登録されています。

当時の囚人たちは、この宿舎に寝泊まりし、ポートジャクソン植民地 (現在のロックス) 開拓の為に労働へ駆り出されていました。

ハイドパークバラックスにある囚人たちの様子が描かれた絵

マッコーリは今までの総督とは違い、囚人たちの能力に応じてチャンスを与え、自由になった働き盛りの囚人たちには土地を割り当て元囚人の地位向上に努めました。実際それによって、富や名声を得て尊敬を集めていった囚人も大勢います。

彼の進歩的な政策は、強制労働を必要としていた特権階級の人たちからはあまり快く思われなかったようですが、とにかく彼は任期の1810年から1821年の間に “壊滅的な町” と言われていた当時のシドニーをきれいに整備し、道路を作ったり病院や教会、学校などを建設し、洗練された町に変えていったのです。

その功績にも関わらず、マッコーリの政策は理解されるどころか囚人の取り扱いを厳しくする方針を強化するという皮肉な結果を招きました。

そして、この頃にはオーストラリアはただの流刑地からイギリスの資源供給地として期待されるようになっていて、囚人の雇用は次第に政府から民間へと転換していきます。

シドニーハイドパーク北入口のマッコーリ総督像

ちなみに1828年の国勢調査ではシドニーの人口は1万800人、そのうち自由移民は全体の13%ほど、80%は16~35歳でした。なお、原住民であるアボリジニの人々は入っていません。彼らは最初は入植者たちと共存して暮らしていましたが、次第に迫害されていき悲しい歴史をたどっていくことになります。

恐ろしい監獄 ポートアーサー

過酷な生活を強いられた厳しい監獄で有名なのが、タスマニアにあるポートアーサー (Port Arthur)ノーフォーク島 (Norfolk Island) です。

ニューサウスウェールズ6代目総督トーマス・ブリスベン (Thomas Brisbane) は「凶悪な犯罪者はこの2カ所に送られ、帰る望みをすべて永久に断たれる。」と言っています。

美しい景色でも知られる観光地ポートアーサーですが、それとはうらはらに監獄では残酷な拷問や石炭の採掘などの過酷な労働を強いられ、厳しい監視システムの徹底により脱出不可能な監獄としても有名でした。

この監獄は1830年から1877年まで稼働し、凶悪な罪を犯した囚人が収容されていました。(現在でも中を見学出来ます。)

当時バン・ディーメンズ・ランド (Van Diemen’s Land) と呼ばれていたこのタスマニア (タスマニアになったのは1856年) は、1803年から1853年の間に約6万7千人の囚人が送られ、そのうちの約1万4500人はアイルランド出身の人たちでした。

1820年に約2500人だった囚人は1833年になると約1万4900人に増加、うち1864人が女性。タスマニアの州都ホバート郊外にはかつて女性囚人の作業所だったカスケーズ女子工場 (Cascades Female Factory 1827年〜1877年) の跡も残されています。

このように囚人たちは複数の場所に振り分けられ、他にもニューサウスウェールズのニューキャッスルやポートマッコーリ、クイーンズランドのモートンベイなども罰則の地として使われていました。
(参考: http://www.let.osaka-u.ac.jp)

女性の囚人たち

女性の囚人たちが働く工場ですが、いちばん最初に出来た女子工場は、1804年に建てられたニューサウスウェールズのパラマタ (Parramatta) のウールを作る工場です。

女性の囚人たちは、現地に到着するとすぐ女子工場へ送られましたが、到着してすぐ結婚をする人も大勢いたようです。

結婚を希望する男性陣が女性を求めて工場に列をなす事もあり、目当ての女性の足元にハンカチを落として拾ったらカップル成立という決まり事も存在しました。生き残る為に身を売る選択をするしかなかった女性も多くいたのです。

19世紀、女性の離婚は許されませんでしたが、海を隔てて7年間離れていたら夫が生きていたとしても再婚出来たそうです。

分離していく植民地

初期の頃、囚人はニューサウスウェールズで受け入れられていましたが、次第にタスマニアに移送されるようになり、1840年にニューサウスウェールズへの囚人移送が廃止された後、1841年から1847年にかけてはビクトリアのメルボルンにも移送されました。

各植民地 (現在の州) は次第に独自の力を持っていった為、1850年にイギリス政府によってオーストラリア植民地政府法 (The Australian Colonies Government Act) が制定され、植民地が自ら自治権を持てるようになりました。

それによって各植民地が次々と独立していくのですが、1829年に正式にイギリス領となっていた西オーストラリアもそれをきっかけに、1850年から1868年の間におよそ9720人の囚人が送られ、囚人たちは労働力の不足からそのまま開拓者として入植しました。

ニューサウスウェールズとタスマニアに送られた人たちの識字率は約75%であったのに対して、西オーストラリアでは50%だったという記録も残っています。

 

人道的対応と廃止に向けて

オーストラリア大陸とニュージーランドの中間に位置する太平洋にあるオーストラリア領の島ノーフォーク島 (Norfolk Island) も、当時はポートアーサーに並ぶ残虐な刑罰が行われていた監獄島だった事は前述しました。

その残虐さは囚人が「刑罰を受けるくらいなら死刑の方が幸せだ」と懇願したほど過酷なものでしたが、1840年にアレクサンダー・マコノキー (Alexander Maconochie) がノーフォーク島の総督となってから、少し流れが変わっていきます。

彼は就任すると直ちに、人道的な対応で彼らの尊厳を回復する方向へ指導しました。
「人間は適切に対応すれば、更生出来る。」と主張し、この考え方は後に世界各国で取り入れていくのですが、マッコーリの時と同じく特権階級には理解されず、結果的に職を追われてしまいます。

マコノキーが去ると再び残虐行為が繰り返されましたが、監獄に務める聖職者の強い抗議により1854年にノーフォーク島の監獄は閉鎖され、ポートアーサーに移される事になりました。

ポートアーサーは、1840年頃になるとムチ打ちの刑などはほとんど行われなくなり、ノーフォーク島ほど厳しくはなくなっていたようです。この頃になると、各地で流刑囚廃止の促進がされていたからです。

そして1868年に流刑制度は完全に廃止され、80年間の流刑囚の歴史が幕を閉じました。

釈放された人たちは、オーストラリアで新たな生活基盤を築き、母国に帰った人はほとんどいませんでした。こういった人たちによって、オーストラリアの新たな文化が形成されていったのです。

(参考: http://members.iinet.net.au)

おわりに

オーストラリアは歴史の浅い国とはよく言われますが、イギリスやアメリカなどの深い関係や、多くの移民たちがもたらした文化的背景など複雑に絡み合う歴史が存在します。

そして、初期植民地時代に囚人たちが建設した道路や建物などは現代でも使用されているものも多いですし、詳しく見ていくと「先祖が囚人」は必ずしも侮辱の言葉にはならない事、それが単なるステレオタイプの安直な発想でしかないという事などが分かるのではないでしょうか。

その間には原住民たちが迫害された悲しい過去、白豪主義など様々なネガティブな黒歴史もありましたが、そちらはまた改めて別記事にしていきたいと思います。