オーストラリアを発見した最初のヨーロッパ人と伝説の大陸テラ・オーストラリス

今でこそオーストラリアはイギリスの植民地だったことが知られていますが、最初にオーストラリア大陸を発見したヨーロッパ人はジェームス・クック (キャプテン・クック) ではありません。

ジェームス・クックがオーストラリア大陸に上陸したのは1770年、植民地化が始まったのは1788年ですが、それより数百年前には存在を知られていました。

ヨーロッパにおけるオーストラリア大陸発見初期は、ほとんどが当時勢力を誇っていたオランダ東インド会社の船だったんです。

 

今回は、最初にオーストラリア大陸を発見したヨーロッパ人とその経緯について詳しく見ていきましょう。

 

大航海時代の幕開け

大航海

航海技術の発展により、15世紀頃からヨーロッパの国々が富と名声を求めて未知の海へ出ていくようになりました。

これは大航海時代 (Age of Discovery / Age of Exploration) と呼ばれ、ヨーロッパの国々は自国の拡大や新しい商売の機会を探すため、東への新しい航路を開拓し始めたのです。

しかし当時のヨーロッパ諸国は戦争も多く、経済的発展を競っていたので、未知の海域への新しいルートや発見などの情報は秘密にされる傾向がありました。

ちなみに、かの有名なクリストファー・コロンブスがアメリカ海域に到達したのは大航海時代のごく初期、1492年のことです。

ただ、ヨーロッパ人にとって新大陸ではありましたが、発見された多くの土地にはすでに先住民たちが住んでいたため、多くの悲劇も起こりました。

オーストラリアの植民地支配が始まったのは1788年からと大航海時代よりも少し後ですが、何万年も前からそこで暮らしていた先住民たちの生活は一変し、悲しい歴史もありました。

日本はといえば、1543年にポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられたり、1549年に宣教師フランシスコ・ザビエルが九州に上陸してキリスト教布教活動をしたりしていますが、17世紀に入ると徳川の江戸幕府によって200年間の鎖国が始まります。

 

さて、話をもとに戻しましょう。

ヨーロッパでは古くから “南に大きな大陸がある” というウワサがありました。

古代ギリシア時代、哲学者アリストテレスが「地球は球体なので、北半球に対応するような大陸が南にもなければ安定が悪くバランスが取れない」と唱えた仮説がずっと信じられていたのです。

この架空の大陸はテラ・オーストラリス (Terra Australis ラテン語で南方の土地) と呼ばれ、大航海時代にはこの伝説の大陸を探して多くの人たちが航海に出ました。

これが「オーストラリア」の語源です。

オーストラリア大陸を発見した西洋人たち

15世紀に入るとアフリカ大陸が海で囲まれた大陸という事が分かり、インド洋は東からも西からもアクセスが可能な事が立証されました。

様々な発見により、テラ・オーストラリスの存在の有無は度々議論されましたが、新しい大陸が発見されるたびに人々は「伝説の島かもしれない」と考えていたようです。

オーストラリア先住民はパプアニューギニアやインドネシアとも近いため、古代より他の大陸の人々とも交流があったと言われています。

ですが、ヨーロッパにおけるオーストラリア発見の最も古い記録は、1606年です。

初期のオーストラリア大陸の発見は、オランダ東インド会社の船が多いのですが、17〜18世紀のオランダは、植民地の拡大によって香辛料の独占貿易を行っていて、黄金時代だったといえます。

1606年ウィレム・ジャンシューンのケープヨーク発見

オランダ人ウィレム・ジャンシューン (Willem Janszoon) は、当時インドやインドネシア周辺の香辛料貿易を独占していたオランダ東インド会社から、新しい貿易拠点になりそうな土地がないか調べるように命じられていました。

彼は西ニューギニア周辺を航海し、現在のクイーンズランド州の先端であるケープヨークを発見。

1606年2月26日にケープヨークの西岸にあるPennefather川 (今のWeipaという町の近く)に上陸しました。

地図上では大きさが分かりにくいと思いますが、ケープヨークの面積は約29万km²。日本の本州が22万km²なので、かなりの広さです。

現在でもオーストラリア人がほとんど足を踏み入れないような熱帯雨林の土地を、ジャンシューンの一行は海岸線に沿ってぬかるんだ地面を踏みしめながら320kmほど歩きました。

しかし、散策中に10人もの船員が殺される事態が起こったので、引き返し本社のあるインドネシアへ戻ることに。

ただ彼は、上陸したケープヨークの土地をずっとニューギニアの南海岸辺りだと勘違いしていたので、オランダの地図には長い間その土地が間違って描かれていました。

そして、ジャンシューンは発見した土地をオランダのジーランド(Zeeland)地方にちなんでニーゼルランド(Nieu Zeland)と命名したかったのですが、採用されませんでした。でもニュージーランドの国名の由来はここから来ています。

1602年ルイス・バーエス・デ・トレースがトレス海峡を発見

1606年2月にジャンシューンがケープヨークに着いた同時期、スペイン王室に仕えていた海洋探検家のルイス・バーエス・デ・トレース(Luís Vaz de Torres)も現在のトレス海峡を発見していました。

実はジャンシューンの方が数カ月早い1605年にトレス海峡を通過していたのですが、彼は特に気にもとめずにそこを素通りしています。

トレースは歴史的にはあまり脚光を浴びませんでしたが、彼の海図や報告書は後の探検家の参考として役立っていたようです。

1616年ディルク・ハートッグが西オーストラリア州を発見

1616年10月25日、オランダ東インド会社の船エーンドラハト号の船長ディルク・ハートッグ (Dirk Hartog) は、南アフリカのケープタウンからインドネシアのバタビア (現在のジャカルタ) に向かう途中、現在のオーストラリア西海岸沖にある島を発見しました。

これが現在ダーク・ハートッグ島 (Dirk Hartog Island) と呼ばれている島の由来です。

それから西オーストラリア州のシャークベイ辺りは1616年から1644年までエーンドラハトランド (Eendrachtsland / Eendraghtsland) と呼ばれていました。

18年間そう呼ばれた後、1644年からはニューホランド (New Holland)、そしてずっと後になったから西オーストラリアと呼ばれるようになっていきます。

1639年アベルタスマンのタスマニア発見

1639年、オランダ東インド会社は日本の東にあるとウワサされている2つの島 “Rica de Oro(金の豊富な島)” と “Rica de Plata(銀が豊富な島)” を見つけたいと考え、Matthijs Quastに探索を依頼し、後にタスマニアを発見するアベル・タスマン(Abel Janszoon Tasman)は、この航海で指揮官を務めています。

6カ月にも及ぶ調査にも関わらず結局何も見つけられずに国へ戻りますが、そこで信頼を得たタスマンに伝説のテラ・オーストラリス大陸を探して調査するようにという新しい依頼が入りました。

インドネシアの首都ジャカルタは、当時オランダ領でバタビア(Batavia) と呼ばれておりオランダ東インド会社の拠点でもあったのですが、タスマンはそのバタビアから1642年8月14日、2隻の船で西へ向かいます。

9月5日、アフリカ大陸付近にあるモーリシャスに到着。その約1ヶ月後に再び南東へ向けて出発しましたが、霧が濃くなったので危険回避の為に東へ方向を変えています。

そして11月24日午後4時頃、東の方向約15キロ程離れた場所に陸地があるのを発見。
島に見える複数の山からこの島がヨーロッパではまだ知られていない島だと確信します。

12月3日、船は近くまで寄れても波が荒くて上陸が不可能だったので、船大工が泳いで島に上陸する事になり、現在のホバート辺りに上陸成功した船大工は、オランダが一番乗りという証拠の旗を立てて戻りました。
この時に見つけた土地が現在のタスマニアです。

タスマンはこの島を、この航海を計画したオランダ東インド会社の総督アントニオ・ヴァン・ディーメンにちなんで Anthoony van Diemenslandt (Van Diemen’s Land)と名付けました。(タスマニアという名前になるのは、その200年ほど後です。)

その後、東へ進路を取り12月13日に現在のニュージーランドの南島の北西部に到達。

この時が初めてのマオリ族とヨーロッパ人との遭遇で、マオリ族と争いになり4人の船員が殺されてしまった事からタスマンはこの場所をMurderers’ Bay (殺人湾 現在の Golden Bay)と名付けています。

そして彼はこの時、島が北と南に分かれているとは思っておらず、北と南の間の海峡(現在のクック海峡)を湾だと思ったので、この海峡をZeehaen Bay と命名し、この土地も1616年に発見された南アメリカのスターテン島 (現在のロス・エスタードス島)の西側だろうと思ったので、このニュージーランドの土地をStaten Landt (Staten Land) と呼んでいます。

それから今度は北西へ向かい、現在のトンガ諸島とフィジーを見付けますが、風が強すぎるのとサンゴ礁に囲まれていて危険だったので上陸は出来ませんでした。

1463年6月15日に無事航海から帰って来た彼は、実は未知の海域5千万マイル以上カバーしオーストラリア大陸を一周していたのですが、本人にはその自覚がありませんでした。

この興味深いタスマンの発見ですが、東インド会社のディーメンは結果に満足出来ず、もっと商業的な成果を得られる発見はないかと考え、1644年2月29日、タスマンは再び3隻の船を与えられ、インドネシアのバンダ島から出航する事になりました。

ニューギニアの南海岸沿いに時計回りし、オーストラリア北部のカーペンタリア湾(Gulf of Carpentaria)沿いを調査していますが内陸部には入っていません。

彼はこの航海の報告書に「この土地は利益になるような物は何も見つけられず、海岸には裸の人間がいて米も何もなかった」と書いています。

会社にとってこの航海は失敗という事で終わり、彼の航海と共に17世紀のオランダの黄金時代も幕を閉じました。

時代と共にゆっくりとタスマンの発見が地図上に証明されて行きますが、次のオーストラリア大陸のヨーロッパ人到来はこの100年以上後になります。

ともかく、この新しく発見されたオーストラリアの土地は1644年以来ニューオランダ (New Holland) と呼ばれるようになり、 この呼び名は1788年にイギリス人が東側の土地にニューサウスウェールズと名付けるまで呼ばれていました。
そして、オーストラリア西部は19世紀半ばまでニューオランダの名前が使われていたのです。

海賊も来ていた

実は1688年に海賊もオーストラリアに上陸しています。

イギリス出身のウィリアム・ダンピア(William Dampier)はとてもおもしろい人物で、オーストラリアやニューギニアを探索した17世紀の最も重要なイギリス海洋探検家と言われています。

肩書きも海賊、探検家、ベストセラー作家、博物学観察者と色々あり、世界周航を3回成し遂げてた彼の大胆な行動力と科学的調査を融合させた功績は、大きな影響力がありました。

16歳で孤児になり船乗りになった彼は、東インド諸島で交易に従事したのち、20代後半の1678年から1691年の間17世紀にカリブ海を荒らしていた海賊バッカニア(Buccaneer)に所属して南米の西海岸や太平洋を荒らしていました。

そしてある航海の途中だった1688年にオーストラリアに上陸しています。

オーストラリアといってもオーストラリアのダーウィン北部、おそらくメルビル島(Melville Island)のある辺りではないかと言われていて、彼は「そこには何も略奪出来る物がなかったし、そこの人々や人々の習慣に嫌悪感を覚えた」と言っています。

それから1691年に帰国した彼の消息は一度途絶え、数年後の1699年1月14日、今度はイギリス海軍の命令によりオーストラリアに向かってイギリスを出発しています。

アフリカ大陸を回って、7月26日に現在の西オーストラリア州のシャークベイに着き探索し、その後ニューギニアやニューブリテン島を探索しました。

西オーストラリアのダンピア諸島、ダンピアランドは彼にちなんで命名されました。

1697年の著書『世界周航記 (Voyage round the World)』は、世界初のベストセラーの旅行記として人気を博しました。
アボカド、バーベキュー、カシュー、箸など何百にも及ぶの英単語は彼によって紹介され導入されたのだそうです。

※新大陸発見についてはhttps://libweb5.princeton.edu(英語)が一番分かりやすかったです。

おわりに

15世紀に始まったこの冒険物語はいかがだったでしょうか?

オーストラリアの歴史の資料では1〜2行程度載っているかいないかの彼らの名前ですが、それぞれ色んな想いがあってドラマがあったんですよね。
オーストラリアもただ発見された訳ではなく、その背景には色んな出来事があったわけです。

このオーストラリア大陸が、古代から伝説とされていたテラ・オーストラリスだとするとちょっとワクワクしませんか?そこに住んでるなんて、ちょっとしたロマンですね!

この後18世紀に入ってから、やっと次のヨーロッパ人であるジェームズ・クックがオーストラリアを訪れます。
キャプテンクックの冒険も読んでみてくださいね。
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