シドニー周辺に住むエオラ (アボリジナル) の人々について

シドニー周辺の歴史を調べていると、“エオラ (Eora)” という名前がよく出てきます。

エオラは現在アボリジニ (アボリジナル) と呼ばれている先住民族のひとつですが、そもそもアボリジニという言葉はあくまでも西洋人が呼んだ名前であり、そういう人種がいる訳ではありません。

現在ニューサウスウェルズ州のシドニー (Sydney) の都市圏だけでも約29のグループが存在し、この民族グループは総称して「エオラ・ネーション (Eora Nation)」と呼ばれています。

そのエオラの中でもガディガル (Gadigal) の人々は、1788年に西洋人がオーストラリアの植民地化を始めた時、最初に接した先住民です。

今回は、そんなエオラの人々についてまとめてみました。

 

※ この記事は主に Wikipedia Eora と、シドニー周辺のアボリジナルについてまとめられている Sydney’s Aboriginal History “Barani” などを参考にしています。

エオラの人々

Aboriginal people
NATIVES OF ENDEAVOUR RIVER IN A CANOE, FISHING

 

一般的にエオラ (Eora) と呼ばれているのは、シドニーの沿岸部に住む先住民です。

どの民族がどのグループに属するかは複雑で多くの議論がありますが、西に位置するパラマタからブルーマウンテンズまでの内陸部を占めていたのがダルグ (Darug)、ボタニーベイの南側を中心としてノウラからシドニー西部のジョージズリバーまで住んでいたのがダーラウル (Dharawal)、北はクリンガイ (Kuringgai)、南にはタラワル (Tharawal) など様々な民族が存在し、通常は平均50人ほどのグループが20〜60ほど集まっています。

今回紹介するエオラの人々は29グループ。

Wikipedia に載っていた一部のグループは、以下のように分類されています。(スペルは複数あり)

Cammeraygal. (Port Jackson, North Shore, Manly Cove)
Wanegal. (South of the Parramatta River. Long Cove to Rose Hill)
Gadigal. (South side of Port Jackson)
Walumedigal. (“Snapper fish clan”. North of the Parramatta River. Milson Point, North Shore opposite Sydney Cove)
Burramattagal. (“Eel place clan”= at the source of the Parramatta River)
Bidjigal. (Castle Hill)
Norongeragal. (locality unknown)
Borogegal. (Bradley Head)
Garigal. (Broken Bay, or southern vicinity)
Gweagal. (Southern shore of Botany Bay)

 

エオラの語源

エオラという名前の由来には諸説あり、先住民の言葉で「ここ (here)」または「この場所から (from this place)」という意味だったのではないかとも言われていますが、定かではありません。

ヨーロッパからの初期の入植者によって付けられた名前であり、この言葉は1899年にイギリスの第一艦隊オフィサーの記録に初めて登場します。そこには “シドニーやポートジャクソン周辺の先住民族” という意味として “men” または “people” と訳されていました。

20世紀後半からは先住民自身も自らをエオラと名乗るようになり、現在でも先住民の子孫はこの言葉を使用。シドニーをエオラカントリーと呼ぶこともあります。

言語・文化

エオラに属すると言っても29のグループは、それぞれ身に付ける装飾や髪型、歌や踊り、道具や武器、儀式などが異なります。

主な言語はダルグ語 (Dharug language) と言われていますが、1789年にワンガルのベネロングがパラマタに行った際、そこで話されている言葉を理解出来なかったという記録も残っているように、実際には複数の言語が話されていていたようです。

ちなみに、現在も使われている一般的な言葉、例えばディンゴやブーメラン、ワラビーなどはダルグ語が語源だと考えられています。(Tharawal語の可能性もあり)

ライフスタイル

主に海岸沿いに住んでいた伝統的なエオラの人々は、樹皮で作ったカヌーに乗り海産物を採取したり、動物を狩猟したりして生活していました。

夏は網や釣り針、槍などを利用して採った Netted mullet などの魚、それに牡蠣を採取。夏が終わると亀も食べていたようです。そして冬はポッサム、ハリモグラ、コウモリ、ワラビー、カンガルーなどを狩猟して生活。

作物を育てることはありませんでしたが、女性は植物を摘んで薬草を作りました。

 

そんなエオラの人々の生活は、西洋人が来たことによって大きく変化することになってしまいます。

 

1788年以降の歴史

The First Fleet
The First Fleet entering Port Jackson, January 26, 1788, drawn 1888

1770年、イギリスからジェームズ・クックの指揮するエンデバー号がボタニー湾に停泊した時にエオラの人々と西洋人は一時的に接触しましたが、本格的な交流が始まったのはそれから18年後です。

オーストラリア先住民は、少なくとも4万年前から先祖代々オーストラリア大陸に住んでいた最古の人類とも言われています。

その伝統的な土地に、今まで見たことがなかった西洋人が侵入して来たのです。

西洋人による植民地化

1788年1月26日、シドニーコーブ (シドニー湾) にイギリスから囚人を乗せた11艘の第一艦隊が到着し、オーストラリアにおける事実上の植民地支配が始まります。

船を指揮し、初代植民地総督となったアーサー・フィリップ (Arthur Phillip) は当初、先住民の人々に対して丁重に対応し、友好関係を築こうとしていました。

Aboriginal people
入植初期のシドニー (ハイドパークバラックスより)

 

しかし、これはエオラの人々にとって悲劇の始まりだったのかもしれません。入植者がやって来て3年以内に、エオラの人口は激減してしまったのですから。

食糧難と伝染病

1788年1月26日にイギリスから囚人を乗せた11艘の第一艦隊がシドニーコーブに到着した時、船に乗っていたのは囚人や役人などを含め約1300人でした。

そして、シドニー周辺に住むエオラの人々はポートジャクソンから半径10マイル以内に約1500人ほどいたと推定されています。

 

船には限られた食料と家畜しか積み込まれてなかったため、食料確保も困難な状況でした。

そんな飢餓状態に加え、1789年にはヨーロッパから持ち込まれた天然痘が流行したのです。免疫を持っていなかったエオラの人々にとって、天然痘やその他の伝染病は大きな影響を与えました。

この頃、海辺で大量にエオラの人々の腐乱死体を入植者や船員によって目撃されるようになります。

こうしてポートジャクソン周辺で暮らしていたエオラの人々の人口はほぼ半数になってしまい、壊滅したグループもいました。

埋められない溝

先住民と西洋人の間にはどうしても埋められない根本的な考え方の違いがあり、勘違いも頻発しています。

例えばフィリップ植民地総督はエオラの女性についていたこめかみにある傷跡を見て、男性が女性を虐げていると思ったのですが、それは喪に服すための伝統的習慣でした。

しかし、いちばん大きな問題は、先住民の複雑な法律や決まりごとについてヨーロッパからの入植者はそれを全く理解せず、彼らを野蛮人だと決めつけたことだったのではないかと思います。

荒廃していたシドニーの町のインフラを整え、囚人や先住民に対して人道的な対応をしたことで知られるマッコーリー植民地総督でさえ、先住民やマオリの子供たちを収容する施設を設立して彼らの文明化を図りました。当時の人たちは、それが良いことだと信じていたのかもしれません。

そして、その後に起こった入植者による先住民の迫害や先住民の子供を親からを引き離す同化政策などもあり、オーストラリア全土の先住民人口が減っていき、彼らの言語、社会システム、生活様式、伝統はほとんど失われてしまいました。

 

次に紹介するのは、そんな時代を生きたエオラの人々の中でも有名な人物と、起きた出来事です。

西洋人との仲介役を果たしたベネロング

Bennelong Aboriginal
An undated portrait thought to depict Bennelong, signed “W.W.” now in the Dixson Galleries of the State Library of New South Wales.

エオラのワンガル出身のベネロング (Bennelong) は、植民地時代初期に西洋人とエオラ族をつなぐ役割を担った人物でした。

実は、西洋人と先住民の仲介役として訓練するため、入植者によってエオラの男性が誘拐されています。

最初に誘拐されたのはアラバヌー (Arabanoo) という男性でしたが、1789年の天然痘の流行で死亡。そのため、その数ヵ月後に捕らえられたのがベネロングとコールビー (Colebee) です。

コルビーは逃亡したのですが、ベネロングは自ら進んで英語やイギリス人のマナー、文化などを数ヵ月かけて学び、仲介役を務めました。

彼は、現在シドニーのオペラハウスが建っているベネロング・ポイントと呼ばれる場所にレンガの家を与えられています。(その5年後に取り壊されましたが)

興味深いことにベネロングは、1792年にヤマラワネ (Yemmerrawanne) と共にイギリスに渡り、1795年にシドニーに帰国しています。

 

ちなみにベネロングの妻は、エオラのカンメライガル (Cammeraygal) 出身のバランガルー (Barangaroo) という女性です。

ここでシドニーに来たことがある人ならピンと来たかもしれませんが、近年新しく開発されたシドニーの観光地、ダーリングハーバーの東側バランガルーという地名は彼女に由来しています。

植民地化化に抵抗したペムルウィ

そして、植民地化に抵抗して10年以上エオラの人々を指揮して戦ったビジガルのペムルウィ (Pemulwuy) という人物がいました。

1790年12月10日、狩猟に出ていた囚人のひとりが先住民に怪我を負わされた事件があり、それをきっかけに両者の関係は悪化します。

それまで先住民に対して寛容な考えをもっていたフィリップ植民地総督は、態度を一変しました。彼は懲罰として兵士を送り込み、襲撃をします。

そんな事態が頻発するようになり、それに対して1792年5月頃からペムルウィは一連の襲撃を指揮。それは彼に賞金首がかけられ、1802年6月2日頃に射殺されるまで続きました。

 

これらの出来事は深堀すると長くなるので、また別記事で紹介しようと思います。

おわりに

オーストラリアには様々な民族グループが存在し、土地の名前の由来が彼らの言語だったり歴史に深く関わっていたりします。

特にエオラの人々については、オーストラリアが植民地化される時に最初に西洋人と交流しているので、入植初期の歴史を語る上では重要です。

ということで、今後もこういった記事を書いて行ければ良いなと思ってます。