【観光前に知りたい南オーストラリア州の歴史】「自由植民地」として始まったSAの成り立ち

南オーストラリア州(South Australia/SA)は、オーストラリアの中でも少し変わった成り立ちを持つ州です。

ニューサウスウェールズ州やタスマニアのように、イギリスから囚人を輸送する流刑植民地として始まったのではなく、土地の販売と自由移民によって新しい社会をつくる「計画植民地」として建設されました。

そのため、南オーストラリア州は現在でも「囚人のいない自由植民地として始まった州」と紹介されることがあります。

しかし、この言葉だけでは南オーストラリア州の複雑な歴史は見えてきません。

植民地が成立する前のカンガルー島には、すでに脱走囚や船から逃げた人々が暮らしていました。自由移民による理想社会を掲げた計画には、土地を高く設定して労働者がすぐに地主になれないようにする意図もありました。そして、植民地の文書に先住民の権利を守る言葉が記されていても、実際の植民は先住民の土地を奪いながら進みました。

一方で、宗教的自由を求めた移民を受け入れ、政治改革や女性参政権で世界の先を行った歴史もあります。銅鉱山、ワイン、港、鉄道、アウトバックの町、移民がもたらした食文化など、現在の南オーストラリア州の観光地には、こうした歴史がさまざまな形で残されています。

この記事では、南オーストラリア州の歴史をすべて網羅するのではなく、実際に町や観光地を訪れる時に知っておきたい大きな流れを紹介します。

 

歴史を知ると、南オーストラリア州の旅はもっと面白い

南オーストラリア州の観光地は、歴史を知ることでそれぞれがつながって見えてきます。

Adelaide: Kaurna Country、計画都市、Park Lands、移民、女性参政権、工業化

Glenelg: 1836年のProclamationと公式植民の始まり               

Kangaroo Island: 海洋探検、捕鯨・アザラシ猟、正式植民以前の接触、最初の公式入植者          

Adelaide Hills・Barossa: ドイツ系移民、宗教的自由、農業、ワイン、戦時中の地名変更         

Kapunda・Burra: 初期植民地を支えた銅鉱山とコーンウォール系移民                   

Yorke PeninsulaのCopper Coast: Moonta、Wallaroo、Kadinaの銅鉱山、港、コーニッシュ文化     

Murray River・Coorong・Riverland: Ngarrindjeri Country、川の交易、蒸気船、灌漑と農業       

Flinders Ranges・Outback: Adnyamathanha Country、牧畜、鉄道、cameleer、鉱山、通信網

Coober Pedy・Andamooka: オパール採掘、移住者、乾燥地に適応した独特の生活                  

Woomera・Maralinga: 軍事・宇宙開発、核実験、国家事業と先住民のCountry            

 

南オーストラリア州が「流刑植民地ではなかった」ことは、この州を理解する大切な入口です。

しかし、それだけで南オーストラリア州を「囚人のいない理想郷」と考えてしまうと、実際の歴史を単純化してしまいます。

自由移民による社会を目指しながら、階級と労働力を計画的に配置しようとしたこと。先住民の権利を守る言葉を掲げながら、その土地を奪っていったこと。宗教的自由を受け入れながら、戦争になるとドイツ文化を抑圧したこと。女性参政権で世界をリードしながら、実際に女性議員が誕生するまで長い時間がかかったこと。

南オーストラリア州の歴史には、理想と矛盾、成功と犠牲が同時に存在しています。

その複雑さを知ってからアデレードの整った街路を歩き、ドイツ系の村を訪ね、鉱山跡やアウトバックの鉄道跡を見ると、風景は単なる背景ではなくなります。

観光地のひとつひとつが、南オーストラリア州がどのようにつくられ、誰がそこで暮らし、何を残してきたのかを伝える歴史の入口になります。

南オーストラリア州の歴史は1836年からではない

南オーストラリア州がイギリスの植民地として正式に成立したのは1836年ですが、歴史がそこから始まったわけではないことは、念頭に置いておきたいものです。

現在「南オーストラリア州」と呼ばれている広大な土地には、ヨーロッパ人が来るはるか以前から、多くのアボリジナルの人々がそれぞれのCountry、言語、文化、交易網を持って暮らしてきました。SA History Hubによると、1836年に植民地がつくられた範囲には、50を超える言語集団が存在していたとされています。

アデレード平原のKaurna(カウナ)、アデレード・ヒルズ周辺のPeramangk(ペラマンク)、ヨーク半島のNarungga(ナルンガ)、マレー川下流域とクーロン周辺のNgarrindjeri(ンガリンジェリ)、フリンダース山脈のAdnyamathanha(アドニャマタンハ)、エア半島のBarngarla(バーンガラ)、州北西部で暮らすPitjantjatjaraやYankunytjatjaraのAṉangu(アナング)など、地域によってTraditional Custodiansは異なります。

アデレードはKaurnaの人々にとってTarntanya(タルンタニャ/赤いカンガルーの場所)と呼ばれる土地で、現在River Torrensと呼ばれる川はKarrawirra Pariという名を持っています。ヨーロッパ人が見たアデレード平原の草地も、手つかずの自然だったのではなく、Kaurnaの人々が何世代にもわたって管理してきた景観でした。

観光地の歴史を調べる時は、「誰がヨーロッパ人として最初に発見したか」だけではなく、その場所がどのCountryにあり、誰が長く守り、利用してきた土地なのかを知ることが大切です。現在、アデレードの公園や広場、川などでKaurnaの名称が併記されているのも、失われかけた言語と文化を取り戻し、現在へつなぐ取り組みの一部です。

フリンダースとボーダンが出会った南の海岸

18世紀末から19世紀初めにかけて、ヨーロッパの船が現在の南オーストラリア州沿岸を調査するようになりました。

1802年、イギリスの航海者Matthew Flinders(マシュー・フリンダース)と、フランスのNicolas Baudin(ニコラ・ボーダン)は、それぞれ南部沿岸の測量を進めていました。そして同年4月8日、現在のVictor Harbor(ビクター・ハーバー)近くで両者の船が出会います。

イギリスとフランスが敵対関係にあった時代でしたが、2人は情報を交換し、フリンダースはこの場所をEncounter Bay(出会いの湾)と名付けました。現在もビクター・ハーバー周辺やカンガルー島には、2人の航海と測量に関係する地名や記念物が残っています。

ただし、彼らがつくったのはあくまでヨーロッパ側の地図です。海岸、島、湾、川には、それ以前から先住民の名称と知識がありました。

正式な植民より前のカンガルー島

南オーストラリア州では1836年から正式なイギリス植民が始まりましたが、それより前からヨーロッパ系の人々が暮らしていた場所があります。それがカンガルー島です。

19世紀初めの島には、アザラシ猟や捕鯨に携わる人々、船から逃げた者、ほかの植民地からの脱走囚などが非公式に住み着いていました。その中には、タスマニアや南オーストラリア州本土から連れ去られたアボリジナル女性たちもいました。

そのため、「南オーストラリア州には囚人がいなかった」という説明を文字どおり受け取ることはできません。正確には、後に成立した南オーストラリア植民地が、イギリスから囚人を送り込んで労働力にする流刑植民地制度を採用しなかった、ということです。

カンガルー島は、美しい海岸や野生動物だけでなく、南オーストラリア州の公式な植民が始まる前の、複雑で時に暴力的な接触の歴史を伝える場所でもあります。

「自由植民地」という新しい社会実験

南オーストラリア州の植民計画に大きな影響を与えたのが、イギリスのEdward Gibbon Wakefield(エドワード・ギボン・ウェイクフィールド)が唱えた「systematic colonisation(組織的・計画的植民)」という考え方です。

ほかのオーストラリア植民地では、囚人や元囚人が労働力の大きな部分を占めていました。これに対して、新しい南オーストラリア植民地では囚人労働に頼らず、土地を販売した資金を使って、働く自由移民をイギリスから送り込もうとしました。

この計画は、自由な人々が努力によって将来を切り開く理想社会として宣伝されました。しかし、すべての人を平等にする計画ではありませんでした。

ウェイクフィールドは、土地が安すぎれば労働者が到着後すぐ自分の土地を持ち、資本を持つ入植者のために働く人が不足すると考えました。そのため土地に「十分な価格」を設定し、労働者がしばらく賃金労働を続けなければ土地所有者になれない仕組みを構想したのです。

つまり「自由植民地」は、囚人労働を使わないという意味では自由でしたが、資本家、土地所有者、労働者という社会構造を意図的につくる実験でもありました。

1834年、イギリス議会でSouth Australia Actが成立し、新しい植民地を建設する法的な準備が整えられます。植民開始の費用をイギリスの納税者に負担させないため、一定額の土地を事前に売却し、保証基金を用意することが条件とされました。

土地販売と移民を管理するColonization Commissioners、政治を担当する総督、そしてSouth Australian Companyが関わる複雑な仕組みは、後に対立や混乱も招きました。それでもこの計画によって、南オーストラリア州はほかの植民地とは異なる出発点を持つことになります。

1836年、9隻の船と最初の公式移民

1836年、南オーストラリア州を目指す公式の移民船がイギリスを出発しました。この年には9隻の船が到着し、500人を超える入植者を運んだとされています。

最初の公式入植者を乗せたDuke of Yorkは、1836年7月27日にカンガルー島のKingscote(キングスコート)へ到着しました。当初はカンガルー島を植民の拠点にする案もありましたが、土地や水などの条件から、Surveyor-GeneralのColonel William Light(ウィリアム・ライト)は本土側に主要都市を置くことを選びます。

同年12月28日、初代総督John Hindmarsh(ジョン・ハインドマーシュ)を乗せたHMS BuffaloがHoldfast Bayに到着しました。現在のGlenelg(グレネルグ)です。

この日に総督のProclamationが読み上げられたことから、12月28日は南オーストラリア州成立を象徴する日として知られています。

ただし、この宣言が南オーストラリア植民地そのものを新たに成立させたわけではありません。植民地の設置は、1834年の法律と1836年2月のLetters Patentによって、入植者が出発する前にイギリスで決められていました。

12月28日のProclamationが告げたのは、植民地政府と法律の運用が始まることでした。また、アボリジナルの人々も入植者と同じく法律の保護下に置かれるという方針も示されました。

現在グレネルグにあるOld Gum Treeは、この出来事を記念する場所です。ただし、当日のProclamationにKaurnaの人々が立ち会っていたことを示す記録は確認されていません。権利を守ると宣言された側の人々が、その場に含まれていなかった可能性は、この植民地の理想と現実を象徴しているようにも見えます。

アデレードは「偶然できた街」ではない

アデレードの中心部を歩くと、道路が格子状に整い、街の周囲を広いPark Landsが囲んでいることに気づきます。これは都市が自然に拡大した結果ではなく、William Lightが1837年に描いた都市計画が基礎になっています。

LightはRiver Torrensを挟んでAdelaideとNorth Adelaideを配置し、街路、複数の広場、周囲の緑地帯を組み合わせました。市街地を囲むPark Landsは現在まで比較的よく残され、アデレードの大きな特徴になっています。

この計画を知っていると、Victoria Square/Tarntanyangga、Light Square/Wauwi、North Terrace、River Torrens/Karrawirra Pari、そして街を囲む公園地帯が、ばらばらの観光スポットではなく、ひとつの都市構想の中に置かれていることが分かります。

後には、南オーストラリア州の地方都市にも、中心部の周囲へ緑地を置く小さな「アデレード型」の都市計画が使われました。ヨーク半島のMaitlandなど、上空の地図を見ると計画の形が分かりやすい町もあります。

先住民の権利を守る文書と、守られなかった土地

南オーストラリア州の建設を語る時、自由移民や都市計画だけを取り上げると、植民地の一方の物語しか見えません。

1834年のSouth Australia Actは、植民対象となる土地を実質的に「空いている土地」とみなし、そこに暮らすアボリジナルの人々の土地所有を認めませんでした。これに対してイギリス国内でも批判が起こり、1836年のLetters Patentには、アボリジナルの人々が実際に占有し利用している土地に対する権利を保護する趣旨の条項が入りました。

しかし、土地の譲渡についてKaurnaの人々と交渉が行われることはなく、入植者は農地や町を広げ、土地を区画して販売していきました。ProclamationやLetters Patentに記された保護の理念は、実際の植民過程では守られなかったのです。

土地の喪失、移動の制限、新しい病気、食料や生活基盤の破壊は、Kaurnaをはじめとする多くの先住民社会に大きな被害を与えました。その後も、保護、隔離、同化を掲げる政策によって、人々の生活、居住、家族、文化は長く管理されました。

一方で、先住民の人々が消えたわけではありません。Kaurnaの言語復興、地名の併記、文化継承、土地権をめぐる運動などは、現在も続く歴史です。

「昔ここに先住民がいた」と過去形で語るのではなく、現在もCountryとつながるTraditional Custodiansがいることを知ると、町や国立公園、川、海岸の見え方も変わります。

苦境にあった植民地を救った銅

計画的につくられた南オーストラリア植民地でしたが、初期の運営は順調ではありませんでした。土地測量や行政をめぐる対立、支出の増大、経済的な混乱が重なり、1840年代初めには計画そのものが行き詰まります。

そんな植民地へ予想外の富をもたらしたのが銅でした。

1842年にKapunda(カパンダ)、1845年にBurra(ブラ)で大規模な銅鉱床が発見されます。SA History Hubによると、1850年には銅生産の価値が牧畜と農業を合わせたものを上回り、Burraはオーストラリア最大の内陸都市になっていました。

銅鉱山はCornwall(コーンウォール)やWales(ウェールズ)から熟練した鉱山労働者を呼び寄せ、南オーストラリア州の町、宗教、建築、食文化にも影響を残しました。

その後、ヨーク半島のMoonta(ムーンタ)、Wallaroo(ワラルー)、Kadina(カディナ)周辺にも大きな銅鉱山地帯が形成され、現在はCopper Coastと呼ばれています。

古い鉱山施設や煙突、石造りの建物、鉱山博物館だけでなく、コーニッシュ・パスティや地域の祭りにも移民の歴史が残っています。BurraやCopper Coastを訪れるなら、鉱山史を知ることで町の景観がずっと立体的に見えてきます。

宗教的自由とドイツ系移民

南オーストラリア州のもうひとつの特徴は、特定の国教会を中心に置かず、宗教的な多様性を受け入れようとしたことです。

1838年以降、プロイセンで宗教的な圧力を受けていたOld Lutheransと呼ばれるドイツ系移民が南オーストラリア州へ渡ってきました。彼らはAdelaide HillsのHahndorfやLobethal、BarossaのBethanyをはじめ、各地に村を築きました。

ドイツ系移民は農業、園芸、穀物栽培、ワイン産業などに大きな影響を与えました。現在のバロッサやアデレード・ヒルズに残るルーテル教会、石造りの家、ドイツ系の地名、パンや加工肉、ワイン文化は、単なる観光演出ではなく、19世紀から続く移民史の一部です。

また、ドイツ人宣教師TeichelmannとSchürmannが記録したKaurna語の文法と語彙は、後のKaurna言語復興にも重要な役割を果たしました。ただし、宣教師の活動にはキリスト教化という植民地側の目的もあり、単純な美談としてだけ見ることはできません。

宗教的自由を掲げた州も、常に寛容だったわけではありません。第一次世界大戦中にはドイツ系住民が敵視され、学校の閉鎖、拘束、地名変更などが行われました。Hahndorfも一時期Amblesideという名に変更されています。

南オーストラリア州のドイツ文化には、「自由を求めて移住した歴史」と「戦時中にその文化を抑圧された歴史」の両方があるのです。

アウトバックを支えたラクダ使いと通信網

ヨーロッパ系入植者が内陸へ進出すると、乾燥した広大な土地で物資を運ぶ方法が必要になりました。そこで重要な役割を果たしたのが、ラクダとcameleer(ラクダ使い)たちです。

当時「Afghans」と総称されたムスリムのcameleerたちは、現在のアフガニスタンやパキスタン周辺などから渡ってきました。1865年には、Elder & Co.がBeltana Stationで働く人々とラクダをPort Augustaへ到着させています。

ラクダ隊は牧場や鉱山へ物資を運び、探検隊やOverland Telegraphの建設を支えました。鉄道が北へ延びると、Farina、Marree、Oodnadattaなどが交通拠点となり、周辺にはGhantownと呼ばれる居住区やモスクもつくられました。

1872年に完成したOverland Telegraphは、AdelaideとDarwinを経由してオーストラリアを国際電信網へつなぎました。現在AdelaideとDarwinを結ぶ列車The Ghanの名は、こうしたcameleerたちの歴史を伝えています。

Port AugustaからFlinders Ranges、Marree、Oodnadatta方面へ旅をすると、古い鉄道施設、廃墟になった町、モスク跡、給水施設などが点在しています。それらは「何もないアウトバック」ではなく、人、物資、情報をつなぐために多くの人々が働いた風景です。

20世紀に入ると、Coober PedyやAndamookaなどのオパール産地、Woomeraの軍事・宇宙開発、Roxby Downsの鉱業など、新たな目的を持つ町もつくられました。南オーストラリア州のアウトバックでは、古い牧畜や鉄道の歴史と、鉱業や国家事業の歴史が何層にも重なっています。

「進歩的な州」と女性参政権

自由植民地として始まり、国教会を置かなかった南オーストラリア州は、19世紀後半になると政治改革でも進歩的な評判を持つようになりました。

中でも重要なのが女性参政権です。

Women’s Suffrage LeagueやMary Lee、Catherine Helen Spenceをはじめとする多くの女性と支援者が活動を続け、1894年12月18日、南オーストラリア植民地議会は女性に選挙権と立候補権を認める法案を可決しました。

これにより南オーストラリア州は、女性に男性と同等の選挙権を認めたオーストラリア最初の植民地となり、女性が議会へ立候補できる権利を認めた世界最初の場所となりました。

しかし、権利が法律に書かれることと、社会の中で平等が実現することは同じではありません。南オーストラリア州議会に最初の女性議員が誕生したのは1959年でした。

アデレードのCentre of Democracy、Parliament House、State Libraryなどを訪れると、巨大な女性参政権請願書や、改革に関わった人々の記録を見ることができます。

南オーストラリア州は1890年代のオーストラリア連邦化運動にも積極的に関わり、1901年に成立したCommonwealth of Australiaの一州になりました。

20世紀の工業化と新しい移民

20世紀前半の南オーストラリア州は、農業や鉱業への依存、世界恐慌、戦争など、大きな変化を経験しました。

第二次世界大戦後には、Premier Thomas Playford IVの長期政権のもとで工業化が進みます。住宅、電力、工場、鉱山、パイプラインなどが整備され、Adelaide北部のElizabethをはじめ、新しい産業都市や住宅地も発展しました。

同じ時期、イギリスだけでなく、ドイツ、オランダ、バルト諸国、イタリア、ギリシャ、東ヨーロッパなどから多くの移民と難民が到着しました。1947年から1966年は、製造業の拡大とヨーロッパからの移民によって、州人口が急速に増えた時代です。

この移民史は、現在のアデレードの食文化にもつながっています。Central Market周辺の食材店、郊外のデリ、ベーカリー、カフェ、ワイナリー、地域の祭りなどを見ていくと、アデレードが単に「イギリス風の静かな街」ではなく、多くの移民によって形づくられた都市であることが分かります。

一方、20世紀の州史には、Emu FieldやMaralingaで行われたイギリスの核実験と、その土地や人々へ残した深刻な影響もあります。Outbackの広さが「人のいない安全な場所」とみなされた背景には、先住民が暮らすCountryを空白として扱う植民地的な見方が続いていたことがありました。

1960年代以降、南オーストラリア州では差別的な法制度の見直しや先住民の土地権回復が進み、1981年のPitjantjatjara Land Rights Act、1984年のMaralinga Tjarutja Land Rights Actなどにつながりました。これは過去の問題がすべて解決したという意味ではなく、Country、文化、自治、歴史を取り戻すための長い過程の一部です。

今後、詳しく紹介したい南オーストラリア州の歴史

  • 南オーストラリア州には囚人がいなかった?「自由植民地」の本当の意味
  • 1836年に到着した最初の9隻とProclamation Day
  • William Lightのアデレード都市計画とPark Lands
  • Letters Patentと、守られなかった先住民の土地権
  • HahndorfとBarossaをつくったドイツ系移民
  • Kapunda、Burra、Copper Coastの銅鉱山とコーニッシュ文化
  • アウトバックを支えたムスリムcameleerとThe Ghan
  • 南オーストラリア州の女性参政権と巨大な請願書
  • 戦争で変更された南オーストラリア州のドイツ系地名
  • 移民と工業化がつくった現代のAdelaide
  • Maralingaの核実験とTjarutjaの人々のCountry
  • Coober PedyとAndamookaのオパール採掘史

主な参考資料
SA History Hub:Foundation
State Library of South Australia:Bound for South Australia
SA History Hub:Aboriginal Languages of South Australia
SA History Hub:The first reading of the proclamation
SA History Hub:Social structure
SA History Hub:Kaurna People
History Trust of South Australia:The Letters Patent
SA History Hub:English in South Australia
SA History Hub:Parklands
SA History Hub:Copper Industry
SA History Hub:Germans in South Australia
SA History Hub:Afghans
SA History Hub:River Murray
SA History Hub:Franchise
SA History Hub:Migration
SA History Hub:Aboriginal Policy and Administration
AIATSIS:Aṉangu Pitjantjatjara Yankunytjatjara Land Rights Act 1981
State Library of South Australia:Maralingaに関する記録

編集メモ
● 本文中の英語表記や先住民言語名は、公開前にサイト全体の表記ルールへ合わせる。
● First Nationsの名称・綴り・該当地域は、各地域記事を作る際にTraditional Ownerの公式サイトや該当Land Councilでも再確認する。
● 「アフガン」と呼ばれたcameleerには多様な出身地の人々が含まれるため、独立記事では呼称をさらに詳しく説明する。
● Woomera、Maralinga、オパール産地、Murray Riverの歴史は、各独立記事で一次資料を追加する。