ウォルター・バーリー・グリフィン(Walter Burley Griffin)と聞けば、まず思い浮かぶのはオーストラリアの首都キャンベラでしょう。けれど、シドニー北部Willoughbyの谷あいで、幾何学模様をまとった石造りの焼却炉に出会うと、少し混乱します。
「首都を設計した人が、なぜIncinerator(焼却炉)を?」
実は、この意外な組み合わせにこそ、グリフィンの考え方がよく表れています。彼が設計したのは、記念碑的な建物だけではありません。山と湖を軸にした首都、地形に沿う住宅地、灌漑地域の新しい町、劇場のような映画館、そして嫌われがちな公共施設まで、人の暮らしと土地の形を結び直すことが彼の仕事でした。
そして、その仕事を語るときに欠かせないのが、建築家マリオン・マホニー・グリフィン(Marion Mahony Griffin)です。キャンベラの美しい応募図面を描いた「妻」だけではなく、設計者、表現者、事務所の運営者、コミュニティづくりの実践者として、ウォルターと長く協働しました。
この記事では、キャンベラだけで終わらず、Castlecrag、Willoughby Incinerator、Melbourne、Leeton、Griffith、Ipswich、Adelaideまで、現在たどれる場所とともに二人の仕事を見ていきます。
ウォルター・バーリー・グリフィンの基本プロフィール

| 英語名 | Walter Burley Griffin |
|---|---|
| 生没年 | 1876年11月24日―1937年2月11日 |
| 出生地 | アメリカ合衆国イリノイ州Maywood(Chicago近郊) |
| 職業 | 建築家、都市計画家、ランドスケープ・アーキテクト |
| パートナー | Marion Mahony Griffin(1871―1961) |
| 主な活動地 | アメリカ、オーストラリア、インド |
| 代表的な仕事 | Canberra都市計画、Castlecrag住宅地、Newman College、The Capitol、Leeton・Griffithの都市計画、各地のIncinerator |
| 死去 | インドのLucknowで腹膜炎により死去。現地に埋葬された |
ウォルターは1899年にUniversity of Illinoisで建築を学び終え、アメリカの都市シカゴで実務を始めました。1901年から1906年にはFrank Lloyd Wrightの事務所で働き、その後独立します。水平線を強調し、建物を周囲の地形や植生と結びつけようとするプレーリー・スクールの環境で、のちの仕事の基礎を身につけました。
ここで関係するのは、のちの「落水荘(Fallingwater)」よりも、WrightがChicago時代に発展させたプレーリー・スタイル(Prairie Style)です。アメリカ中西部の平らな草原に呼応するように、低い屋根と深く張り出す軒、横長に連なる窓や煉瓦で水平線を強調し、室内・家具・照明・幾何学模様まで一体として設計しました。建物を土地から切り離さず、周囲の風景と調和させることも大きな特徴です。代表例のRobie Houseを見ると、その姿がよく分かります。Griffin夫妻が受け継いだのは外観のコピーではなく、この「建築と土地、暮らしを一つに考える」方法でした。
シカゴからオーストラリアへ―プレーリー・スクールの経験
19世紀末から20世紀初頭のシカゴは、高層建築や郊外住宅の新しい形が次々と試された都市でした。そこで活動した若い建築家たちは、ヨーロッパの歴史様式をそのまま移すのではなく、アメリカ中西部の広い大地に合う建築を探したのです。
ウォルターが学んだのは、単なるWright作品の外観の模倣ではありません。建物を孤立した箱として置くのではなく、敷地の高低差、眺望、光、植物、道路、生活動線までを一体として考える方法でした。低く伸びる屋根、水平線、幾何学模様、自然素材への関心は、後年のCastlecragやIncineratorにも姿を変えて現れます。
ただし、ウォルターをWrightの弟子だけで説明するのも不十分です。彼は土地測量や景観設計への強い関心を持ち、やがて個々の住宅より大きなスケール――住宅地や都市そのもの――へ進んでいきました。
マリオン・マホニー・グリフィンは「図面を描いた妻」ではない
Marion Lucy Mahonyは、1894年にMassachusetts Institute of Technology(MIT)の建築課程を修了し、1898年にはIllinoisで試験による建築家資格を得た先駆的な女性建築家でした。Frank Lloyd Wrightの事務所でも長く働き、建築の設計と、それを植物や風景の中に生き生きと見せる表現で重要な役割を担いました。
ウォルターとマリオンは1911年6月に結婚します。その頃、オーストラリア政府は新首都の国際設計競技を行っていました。二人のCanberra案は、ウォルターが空間構想を組み立て、マリオンが巨大なリネンのパネル13枚にインク、ガッシュ、水彩で都市の姿を表現した共同制作です。現在の研究では、マリオンは単なる清書担当ではなく、設計思想にも深く関わった共同制作者と捉えられています。
ウォルター自身も1913年、応募案のアイデアの「半分以上」がマリオンによるもので、彼女は半分以上の評価を受けるに値するという趣旨を語ったと伝えられています。
オーストラリア移住後も、マリオンはSydney事務所の運営、建築設計、プレゼンテーション、執筆、Castlecragの文化活動を担いました。MelbourneのThe Capitolでは、洞窟や結晶を思わせる劇場天井の造形に彼女の設計力が顕著に表れています。
キャンベラの建物ではなく、首都の骨格を設計
1901年に成立したオーストラリア連邦は、SydneyとMelbourneの間に新しい首都を建設することにしました。これが現在のキャンベラ(Canberra)になります。
1908年にYass–Canberra地域が選ばれ、1911年には国際設計競技が始まります。世界から137案が寄せられ、1912年5月、応募番号29のGriffin案が第1位になりました。
山、湖、三角形で構成された都市
Griffin案の特徴は、土地を平らにして碁盤目を押しつけるのではなく、盆地を囲む山々と水の流れを都市の構図に取り込んだことです。
- Land Axis:Mount AinslieからCapital Hillを貫き、遠方の山並みへ向かう大地の軸
- Water Axis:Black Mountain方向へ伸び、Land Axisと交差する水の軸
- National Triangle:現在のParliament House、City Hill、Russell方面を結ぶ国家機能の三角形
- 中央の湖:Molonglo Riverをせき止め、都市の中心に連続する水面をつくる構想
都市を歩く人は道路だけを見ていても全体像をつかみにくいのですが、Mount Ainslie Lookoutから眺めると、Australian War Memorial、Anzac Parade、Lake Burley Griffin、Old Parliament House、Parliament Houseが一本の軸に並ぶ様子がよく分かります。Griffinの都市が、平面図ではなく風景として設計されていたことを体感できる場所です。
勝ったのに、思いどおりには進まなかった
ウォルターは1913年に来豪し、Federal Capital Director of Design and Constructionに任命されました。しかし、行政内部の対立、予算不足、第一次世界大戦、既存官僚との権限争いが続きます。1917年のRoyal Commissionは彼への妨害を認め、責任がないとしましたが、計画はたびたび変更されました。1918年に最終計画がまとめられ、1920年末に契約が終わります。
在任中に計画された都市の大部分は、すぐには建設されませんでした。それでも1924年に計画が官報に掲載され、基本的な骨格が守られたため、のちのCanberra建設に大きな影響を残しました。中央の湖が完成し、Lake Burley Griffinへの注水が公式に記念されたのは1964年10月17日。ウォルターの死から27年後のことです。
キャンベラの外へ――オーストラリア各地に残した仕事
Melbourne:大学、映画館、住宅地
キャンベラの仕事が難航する一方、二人は民間の設計も続けました。ビクトリア州のメルボルンでは、ParkvilleのNewman Collegeが1918年に完成。円形の食堂棟と回廊、石造りの量感が特徴で、現在はNational Heritage Listに登録されています。
1924年に開館したThe Capitol(旧Capitol Theatre)は、街路側の建物の奥に劇場を収めた複合建築でした。最大の見どころは、照明によって色と陰影を変える幾何学的な天井です。長い年月の改変を経てRMIT Universityが修復し、現在はイベントや教育の場として使われています。
EaglemontではGlenard EstateやMount Eagle Estateを計画し、二人自身も住宅Pholiotaで暮らしました。ここでも道路を等高線に沿わせ、土地の起伏と眺望を生かす発想が試されています。ただし、住宅は現在も私有地が多く、見学は公開イベントの有無を確認する必要があります。
LeetonとGriffith:灌漑地域に描いた新しい町
ニューサウスウェールズ州Riverinaでは、Murrumbidgee Irrigation Areaの開発にともなって、新しい町の計画が必要になりました。LeetonとGriffithの都市計画にはGriffin夫妻が関わり、広い街路、公園、放射状道路、リングロードなどが構想されました。
Griffithは1916年8月4日に町として宣言され、現在も中心部の放射状パターンにその痕跡が見られます。LeetonではWater Towerの夜間プロジェクションがGriffinの計画を紹介しています。Canberraの壮大な軸線とは規模が違っても、道路、公園、眺望を組み合わせて町全体をつくる考え方は共通しています。
Castlecrag:自然、住宅、共有地、コミュニティ
1920年、Griffin夫妻が関わるGreater Sydney Development Associationは、Middle Harbourを望む岩の多い土地を取得しました。そこに計画されたのがシドニー郊外のCastlecragです。夫妻は1925年頃からここで暮らしました。
Castlecragの道路は地形に沿って曲がり、名前もThe Rampart、The Citadel、The Barbette、The Bulwarkなど「城」にちなんでいます。住宅の間には、港へ向かう眺望や歩行者用の細道、自然を残した共有リザーブが組み込まれました。道路と敷地を直線で切り分け、各戸を高い塀で囲う一般的な郊外とは異なる発想です。
Walterは地元の砂岩と、自ら特許を取ったKnitlock(組み合わせ式プレキャスト・コンクリート・ブロック)を利用しました。計画された住宅のすべてが建ったわけではなく、Knitlockには防水などの課題もありましたが、建物と岩、樹木、斜面を一つの景観にしようとした意図は今も読み取れます。
MarionはCastlecragのCommunity Circleや演劇活動を育て、1930年には自然の谷を利用したHaven Valley Scenic Theatreを始めました。Castlecragは建築作品の集合であると同時に、芸術と近隣交流を通じて暮らしをつくる社会的実験でもあったのです。
なぜ建築家がIncineratorを設計したのか
1929年以降、WalterはEric Milton Nichollsとともに、Reverberatory Incinerator and Engineering Company(REICo)の焼却施設を設計しました。東部4州に完成した12基は、自治体が増え続けるごみと公衆衛生に対応するための実用施設でした。
しかしGriffinたちは、機械を収めるだけの無表情な箱にはしませんでした。ごみ収集車が上から投入し、燃焼後の残渣を下から運び出せるよう、斜面そのものを工程に利用します。建物の量塊を段状に重ね、地元の石や煉瓦、三角形・菱形の装飾を加えました。煙突も隠すのではなく、全体の構図の一部にしています。
シドニー郊外ウィロビー(Willoughby)にある焼却炉( Incinerator)は1933―34年に建設され、1934年から1967年まで稼働しました。Great Depression期の雇用事業でもあり、廃棄物処理という自治体の日常機能に建築的な価値を与えた建物です。地元の砂岩を使って斜面を下るように配置された姿は、少し離れて見ると小さな要塞や寺院のようにも見えます。
1968年には解体案に対して市民の保存運動が起こり、その後レストラン、オフィスを経て修復されました。1999年にNSW State Heritage Registerへ登録され、2011年から再び一般に使われています。現在は下階がアートスペース、地上階がカフェです。
定期的にアート展が開催されている、シドニ […]…
首都の設計と焼却炉は正反対の仕事に見えます。でもGriffinにとっては、どちらも「地形を読み、公共の機能を美しい風景の一部にする」設計でした。キャンベラを知ってからIncineratorを見る旅も、IncineratorからCanberraへ戻る旅も成立します。
各地で文化施設に生まれ変わった焼却炉
現存するGriffin系Incineratorの多くは、すでにごみ処理施設ではありません。EssendonではIncinerator Gallery、IpswichではIncinerator Theatreとして再利用され、Willoughbyもアートと飲食の場になりました。かつて町の裏側を支えた建物が、今度は地域文化の拠点になっているのは、とてもGriffinらしい第二の人生です。
インドでの最後の仕事
1935年、Walterは大学図書館の設計をきっかけにインドへ渡り、Lucknowを中心に多くの仕事を得ました。翌1936年にはMarionも合流します。二人は住宅、大学施設、新聞社Pioneer Pressの建物、博覧会計画などに取り組みました。
しかし1937年2月、Walterは胆嚢の手術後に腹膜炎を起こし、Lucknowで60歳の生涯を終えます。Marionは仕事を整理してCastlecragへ戻り、1938年にChicagoへ帰国しました。その後、長大な回想録『The Magic of America』を書き、1961年に亡くなりました。
ウォルター&マリオン・グリフィン関連スポット
建物の公開状況は変わるため、訪問前に公式サイトで最新情報を確認してください。特にCastlecragやEaglemontの住宅は現在も個人の住まいです。公道や公園から静かに外観を眺め、敷地へは立ち入らないようにしましょう。
ACT
- Canberra中心軸(Mount Ainslie―Lake / Burley Griffin―Parliamentary Triangle)まずMount Ainslie Lookoutから都市の軸を確認し、Anzac Parade、湖畔、Old Parliament House、Parliament Houseへ。Griffinの平面図が風景になる過程を歩けます。
- Lake Burley Griffin
1964年に実現した都市の水面。湖畔一周は約40.5kmあり、自転車や区間散策向き。Commonwealth ParkやNational Triangleと組み合わせやすい場所です。 - National Capital Exhibition(Regatta Point)
Canberraの計画と発展を模型・展示で理解してから街へ出ると、軸線や三角形が分かりやすくなります。 - Surveyors Hut(Capital Hill付近)
首都候補地の測量に使われた小屋。外観見学のみ。Griffin以前の測量と、都市計画の基礎になった地形調査を結ぶ小さな史跡です。
NSW州
- Willoughby Incinerator(2 Small Street, Willoughby)
1933―34年建設。現在はIncinerator Art Spaceとカフェ。地元の砂岩、斜面、幾何学装飾、煙突を一体として観察できます。 - Griffin Federation Track(Castlecrag)
Willoughby IncineratorとCastlecrag Estateを結ぶ約2km(片道)の散策ルート。二つの仕事を一度にたどれる、この人物記事に最も相性のよい観光リンクです。 - The Haven Amphitheatre(Castlecrag)
自然の谷を舞台にした野外劇場。Marionのコミュニティ活動を伝える場所です。イベント利用時の入場条件を確認してください。 - Castlehaven Reserveと街路(Castlecrag)
共有地、港への眺望、岩場、歩行者の小道、等高線に沿う道路を観察。住宅地全体を作品として見る場所です。 - Duncan House/Fishwick Houseほか(Castlecrag)
現存するGriffin住宅。原則として私有住宅のため、外観のみ。Walter Burley Griffin Societyのガイドツアーや特別公開がある場合に限り、案内に従って見学を。 - Leeton(Riverinaエリア)
街路と公園の構成を歩き、夜はLeeton Water Towerのプロジェクションへ。町の計画史と地域の水利史を組み合わせられます。 - Griffith中心部(Riverinaエリア)
放射状道路、広い並木道、リングロード、公園に注目。Burley Griffin Community Gardensも関連地名として立ち寄れます。 - Burley Griffin Way(Yass/Canberra方面とGriffithを結ぶ州道94号)
人物ゆかりの二地域を結ぶロードトリップに使えます。
VIC州
- The Capitol(113 Swanston Street, Melbourne)
1924年開館。結晶状の天井と照明が見どころ。常時自由見学の施設ではないため、上映・イベント日程に合わせるのがおすすめです。 - Newman College(887 Swanston Street, Parkville)
1918年完成の大学寮。公式サイトで建築ツアーを案内しています。大学施設のため、予約条件を確認してください。 - Incinerator Gallery(VIC・Moonee Ponds)
1929年完成のEssendon Incineratorを現代美術館として再利用。建築史ツアーが行われることもあります。 - Glenard/Mount Eagle Estates(Eaglemont)
等高線に沿う道路と眺望を生かした住宅地。Pholiotaなどの関連住宅は私有地です。
QLD州
- Incinerator Theatre(10A Milford Street, Queens Park, Ipswich)
1936年に開業し、後に劇場へ転用。Queensland Heritage Register登録、州内で唯一のGriffin建築です。公演・イベント時の公開を確認してください。
SA州
- Former Hindmarsh Incinerator(Burley Griffin Boulevard, Brompton)
1935年設計、1936年開業。公園内に残るState Heritage Place。所在地名そのものにもGriffinが残ります。 - Former Thebarton Incinerator(34–36 West Thebarton Road, Thebarton)
South Australiaに残るもう一つのGriffin Incineratorで、State Heritage Place。一般公開を前提とせず、外観・公開情報を確認して訪問してください。
おすすめの「つながる」歩き方
- Willoughby半日:Willoughby Incinerator → Griffin Federation Track → Castlecragの街路とリザーブ → The Haven
- Canberra一日:Mount Ainslie Lookout → Australian War Memorial → 湖畔 → National Capital Exhibition → Parliamentary Triangle
- Melbourne建築編:Newman Collegeの予約ツアー → The Capitolの公開イベント → Incinerator Gallery
- Riverinaロードトリップ:Canberra/Yass → Burley Griffin Way → Griffith → Leeton
- 州を越えるIncinerator巡り:Willoughby → Essendon → Ipswich → Hindmarsh/Thebarton。産業遺産が芸術・演劇・公園へ変わった過程も比較できます。
現代から読み直す――自然を愛した計画家、その先にある問い
Griffin夫妻の計画は、土地の起伏や在来植物を消して均一な郊外をつくるのではなく、自然地形を残し、住民の共有空間を設けようとした点で先進的でした。Castlecragのリザーブや歩行者路は、その価値を今も実感させます。
一方、「自然を残す」という言葉だけでは、この土地の長い歴史を語りきれません。CanberraはNgunnawalとNgambriの人々に深く関わる土地、Willoughby/CastlecragはGamaragalの土地、LeetonとGriffithはWiradjuri Countryにあります。植民地政府が新首都や灌漑都市を計画した時、土地は決して無人の空間ではありませんでした。
Griffin夫妻の設計は、当時の入植者社会の中では環境との共存を強く意識したものでしたが、First Nationsの主権や土地との関係を都市計画の中心に据えたものではありません。その両面を知ると、「自然に調和した美しい都市」という評価を保ちながら、誰の土地に、誰のための都市がつくられたのかも考えられます。
人物を理解するための5つの要点
- Canberraの建物ではなく、都市の骨格を設計した。現在の街は、彼の構想を後世が変更しながら実現したもの。
- Marion Mahony Griffinは共同制作者だった。応募図面の表現だけでなく、設計、事務所運営、執筆、地域活動を担った。
- 地形が設計の出発点だった。山と湖、斜面、岩、眺望、道路を別々に扱わなかった。
- 焼却炉も都市デザインの一部だった。公共の実用施設を、土地に根ざす建築へ変えた。
- 完成しなかったものも多い。Canberra、Castlecrag、住宅地計画はいずれも当初案どおりではない。それでも基本思想が後世に残った。
まとめ――Willoughby Incineratorから見える、もう一つのCanberra
Walter Burley Griffinは、「キャンベラを設計したアメリカ人建築家」という一行では収まりません。Marion Mahony Griffinとともに、都市、住宅地、大学、映画館、工場、焼却炉を通じて、人間の生活を風景の中にどう置くかを考え続けました。
Willoughby Incineratorの前で感じる驚きは、彼の仕事を知る最高の入口です。石積みが斜面を下り、幾何学模様と煙突が風景に組み込まれた姿を見ると、Lake Burley Griffinを中心に山と都市を結んだCanberraと、同じ設計者の目が働いていることに気づきます。
そしてGriffin Federation Trackを歩けば、焼却炉からCastlecragへ、産業施設から住宅地へ、WalterからMarionへと物語がつながります。遠い場所が一つの旅になる――Griffin夫妻ほど、歴史記事と観光記事を結びやすい建築家はなかなかいません。
主な参考資料・公式訪問情報
Australian Dictionary of Biography: Walter Burley Griffin
Australian Dictionary of Biography: Marion Lucy Mahony Griffin
National Capital Authority: Walter Burley Griffin
National Archives of Australia: Walter Burley Griffin and the design of Canberra
National Capital Authority: Lake Burley Griffin
National Capital Authority: National Capital Exhibition
Willoughby City Library: Willoughby Incinerator
Heritage NSW: Walter Burley Griffin Incinerator
Willoughby City Council: Griffin Federation Track
Willoughby City Council: The Haven Amphitheatre
Walter Burley Griffin Society: Self-guided tours
Leeton Shire Council: History of Leeton
Visit Leeton: Leeton Water Tower at Night
Visit Griffith: History
RMIT University: About The Capitol
Newman College: Architecture
Incinerator Gallery: History
National Trust of Australia (Queensland) Heritage Register: The Burley Griffin Incinerator
South Australia Heritage Places Database: Former Hindmarsh Incinerator
Walter Burley Griffin Society: Incinerators in Australia
※ 訪問情報・リンク確認:2026年8月20日。公開日時、ツアー、入場条件は変更される場合があります。
