19世期のオーストラリアで米作りを始めた日本人がいた

オーストラリアのスーパーマーケットには日本のお米に近いものが売られているので、日本人としてはありがたいですよね。

でも、お米をサラダと考えてるフシがあるオーストラリア人もいる中、多くの人が主食にしているわけではなさそうなのに、なぜお米がこんなに流通しているんだろうと不思議に思った事はないですか?

それは、明治時代にオーストラリアに日本の稲を持ち込んで、苦労の末に稲作に成功させた日本人がいたからでした。

オーストラリアのお米事情

 

[adchord]

オーストラリアの稲作発祥地

ビクトリア州のスワンヒル (Swan Hill) から Murray Valley Highway を西北へ25キロほど行った所に、見落としてしまいそうなくらい小さな標識が出ています。

その標識には“Australia’s First Rice Farm (オーストラリアで最初の田んぼ)” と書いてあり、その標識が示す場所に続く小さな小道は “Takasuga Road” という日本人の名前の道です。

私たちは小さな標識に沿って、車で小さな道を進んで行きました。

舗装されていない農道なので小さな車はガタガタと揺れます。

行き着いた場所には、ひっそりと石碑がありました。でも石碑は小さいものの、ここからオーストラリアのお米の歴史が始まったのかと思うと感慨深いものがあります。

そう、ここは100年ほど前に苦労を重ねて稲作を成功させた高須賀 ゆずる (英語名はジョー) という人のゆかりの土地なのです。

ちなみにこの石碑、以前は違う場所にあったようなのですが、現在はここ Vinifera という場所に移されています。

私たちはスワンヒルに滞在した後、アデレードに向かう途中で『地球の歩き方』に載っていた小さな説明と写真を頼りにここまで来たのですが、その本の情報は古いままアップデートされていなかったので、ここの標識が見つけられて本当にラッキーでした。

周りには建物らしいものは何もありません。

オーストラリア米は気候が北半球と逆なので3月から5月に収穫されるそうです。私達が行ったのは真冬の8月、ちょうど耕作時期だったようなので、実際に稲が植えられているところは見れなかったのが少し残念でした。

稲作を成功させた日本人

オーストラリアで最初の稲作の歴史は、日本が明治時代だった1900年代まで遡ります。

毎年春の雪解けの水で洪水が起きる為に長い間使えない場所として放置されていたこの土地に堤防を作り、苦労を重ねて稲作を成功させたのは高須賀 ゆずるという人でした。

白豪主義という白人が最優先される当時のオーストラリアで稲作を成功させようというのですから、それは決して容易な事ではなかった事は想像に難くありませんが、収穫に成功するまでに6年の月日を要したそうです。

ある年は大洪水で水田も全て流されてしまい、数カ月間船を漕いで行き来しなければならない事もあったと言います。

高須賀 穣という人

そんな高須賀 穣 (1865-1940) は、愛媛県松山市の大名家に仕える料理長の一人息子として生まれ、18歳で家督を受け継ぎ、慶應義塾を卒業後、海外への関心からアメリカに留学して学位も取得したエリートでした。(ちなみに彼の英語名は ”ジョー” と言い、英語の記載はYuzuruではなくJo Takasugaとなっています。)

帰国後は衆議院議員選挙に当選し、後に結婚。長男と長女をもうけ、順調な人生を送っていました。

そんな彼でしたが、オーストラリアがイギリスから独立してすぐの1905年、新たな挑戦をしようと家族を連れてオーストラリアのメルボルンに渡ります。その時、彼は40歳。

当時の “白豪移民制度法” という白人最優先主義真っ只中のオーストラリアで輸入業を営む傍ら、オーストラリア人に日本語も教えていたそうで、最初から稲作を始めるつもりではありませんでした。

ところがある日、彼はオーストラリアの土地が日本の米を育てるのに適した環境である事に気付き、オーストラリアで米が育てられれば、日本から大量に輸入する必要がなくなると思いました。

充分に稲作の知識があった彼は、当時の州知事等を説得し、最終的に同年7月にマレー川流域スワンヒル下流の土地で稲作が出来る事になったのです。

こうして日本から持ってきた米の種を蒔き、オーストラリアで初の稲作が開始されたのですが、それは想像以上に大変な事でした。

芽が羊に食べられたり水不足に見舞われたり、逆にマレー川が氾濫して大洪水になった年もあり、その土地で米が収穫できるようになるまでに、約6年という期間を費やしています。

堤防工事を命がけで手掛け、ついに1918年に “ジャップ・バンク” と呼ばれる堤防が完成。
この土地を永久に利用できるように奔走するも、何度も却下。しかし努力の甲斐あって、最後には土地の自由保有権を得る事に成功します。

米が軌道に乗るとブドウやトマトの栽培にも手掛けましたが、69歳で引退、2人の息子に事業を任せています。

1940年、義母の葬式に参列するために帰国し、そのまま自身も心臓発作で亡くなりました。享年75歳。

彼の奥さんと3人の子供たちはオーストラリアに残り、それぞれの持ち場で活躍した人生だったようです。

参考: http://www.konishi.co.jp / http://www.sunricejapan.jp / http://nichigopress.jp / http://gogotours.com.au

穣の一粒

この高須賀 穣さんの物語は、オーストラリア在住の松平みなさんという方が『穣の一粒』という本にしています。

穣の一粒
松平みな著 愛媛新聞社

この本の著者である松平みなさんは、1987年にニューサウスウェールズ州のGosfordに移住された方で、教鞭を執る傍らボランティアで通訳などにも取り組まれていて、1998年には「環太平洋協会」という非営利団体を設立。10年間理事を務めるなど、オーストラリアと日本の交流の橋渡しとして貢献されて来た方です。

『穣の一粒』はそんな彼女の3冊目の本。

『穣の一粒』では、恵まれた境遇のすべてを投げ打ってオーストラリアに渡り、逆境の中で米作りを成功させた明治時代の日本人の精神力の強さと、その時代の躍動感に焦点を当てました。なぜそこまで苦労して白豪主義のオーストラリア社会に溶け込み、稲作を通してこの国に貢献しようとしたのか。明治の男の矜恃と、それを支えた女の強さを伝えたいと思います。
http://nichigopress.jp

石碑の周辺をドライブ

オーストラリアのお米は、ビクトリア州とニューサウスウェルズ州の一部の地域で作られています。

今まで私はオーストラリアの色んな場所に行きましたが、一度も田んぼらしいものを見た事なかったので、どうしてもオーストラリアと田園風景が結び付きませんでした。でも、どうやらこの辺りが生産地のようです。

この記念碑があるビクトリア州のマレー川沿いの道路を車で走りましたが、行っても行っても農業地が続いていました。

オーストラリアは小麦の生産量もすごいですが、改めて日本とは桁違いの広大な規模です。さすが自給率200%を超える農業大国ですね。

おわりに

オーストラリアで日本人のたどった歴史や功績に出会うとやっぱり嬉しくなります。これを知ってから、私はオーストラリアのお米を見る目が少し変わりました。