19世紀にNSW州で話題になったフレッド・フィッシャーの幽霊事件

ニューサウスウェルズ州のシドニー郊外にある町キャンベルタウン (Campbelltown) は、幽霊の目撃情報が多い地域だと言われています。

その中でも最も有名な話が、19世紀に殺されたフレッド・フィッシャー (Fred Fisher) という開拓者の幽霊が出たという話です。

それにちなんで現在でもキャンベルタウンでは、彼に由来したフィッシャーズゴーストフェスティバル (Fisher’s Ghost Festival) が毎年開催されています。

数百年後までお祭りされることとなった事件とは一体何だったのか?

今回は、それについて詳しく追っていきましょう。

 

大騒ぎになったフレッド・フィッシャーの事件

毎年11月にキャンベルタウンで開催されているフィッシャーズゴーストフェスティバル (つまりフッシャーズの幽霊祭) は悲壮感は全くありません。

かわいいお化けのキャラクターが出て来て、パレードあり、移動遊園地ありの子供が喜ぶイベントです。

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ですが、もともとの話は全く愉快なものではなく、悲しい殺人事件でした。

ただ、1826年に起きたフレッドの幽霊話は、当時あまりにもインパクトがあり、噂は様々な作品まで生み出したようです。

1924年にこの事件が無声映画になり、1961年にはノースシドニー出身のミュージシャン Johnny Ashcroft によって歌にされ、1832年に事件について新聞に匿名で投稿された詩「The Sprite of the Creek!」を見たアメリカ人の超常現象研究者ジョー・ニッケル (Joe Nickell) が本を書きました。

 

お祭りが始まったのは1956年からで、既にあった他のイベントとこの事件を組み合わせて現在に至っているようです。

一応「オーストラリアで最も有名で、世界的にも知られている話」ということにはなっていますが、2024年現在はその話をしている人はほんの一部になってしまいました。

ですが、キャンベルタウンに行けば、しっかりとその面影を見ることが出来ます。

さて、ではフレッドはなぜ殺されなければいけなかったのか?詳しく見ていきましょう。

有罪判決を受け、オーストラリアに来たフィッシャー

イギリスのロンドン出身のフレッド・フィッシャー(Frederick George James Fisher 1792年8月28日-1826) は、1815年に有罪判決を受けるまでは母国で小売店をしていました。

しかし、偽札事件に関わってしまったことが原因で有罪判決を受け、当時流刑地になっていたオーストラリア大陸に14年間の刑を言い渡されてしまいます。

こうして1818年に囚人としてオーストラリアに送られて来たフィッシャーは、収容所で事務員として働きました。

彼は商才がある人物だったようで、置かれた立場を利用しながら社会的コネを作り、4年後の1822年には晴れて仮釈放。シドニーから南西におよそ約55kmほど離れたキャンベルタウンの土地 (まだ町として設立されて2年目の頃) に広い土地を得て、農場を経営し始めました。

現在のキャンベルタウン中心部

現在キャンベルタウンはそれなりに栄えた町になっていますが、入植したばかりだった当時はまだ開拓され始めたばかりの何もない田舎の農村地です。彼はそんな土地を開拓し、順長にビジネスを展開しています。

まさかこの後、彼の身に不幸な事件が起こるなんて、まだ誰も知りません。

フィッシャーの謎の失踪

1825年、ある日フィッシャーは農場の設備について大工と口論になり、ナイフまで持ち出す騒ぎを起こしてしまい、再び有罪の判決を受けてしまいました。

軽い罪だったので数カ月ほどの刑期で釈放される予定だったとはいえ、長期で農場を不在にしなければいけません。

そこでフィッシャーは、隣人で彼と同じく元囚人の農場経営者ジョージ・ウォラル (George Worrall) に自分が不在中の農場を管理をしてもらうように依頼しました。

そして1826年、刑期を終えてキャンベルタウンに戻ってきたフィッシャーはしばらくウォラルの家に滞在。しかし、6月17日を境に彼はこつぜんと姿を消し、以来誰もフィッシャーを見る人はいませんでした。

ウォラル
フィッシャー?ああ、彼はイギリスに里帰り中で、もしかしたら彼は農場を手放すかもしれないと言っていたよ。

ウォラルはそう周りに話していましたが、フィッシャーはまだ囚人という立場で完全に自由市民になったわけではありません。そんな彼が逮捕のリスクまでおかして帰国するというのは不自然で説得力がなく、人々は不信に思いました。

しかも、ウォラルはその3週間後にフィッシャーの馬や財産を売却するという怪しい行動を取ったため、警察は9月にウォラルを殺人容疑で逮捕します。

ですが、フィッシャーの遺体は依然として発見されず、ウォラルが犯人だという証拠が不十分のまま、時は過ぎていくばかりでした。

橋の上の幽霊

そんなフィッシャーの謎の失踪から4カ月後、ある夜に奇妙な出来事が起こりました。

地元のホテル Patrick’s Inn に、農夫のジョン・ファーリー (John Farley) が血相を変えて入って来て、橋の上でフィッシャーの幽霊を見たと言うのです。

ファーリー
今、頭から血を流したフィッシャーが小川にかかる橋の柵に座っていたんだ!

彼はびっくりして悲鳴を上げた後、何とか「お前…、イギリスに戻ったんじゃなかったのか?」と声をふりしぼって聞くと、フィッシャーは何も答えずただ黙って橋のたもとの牧草地を指差してからスッと消えてしまったと言うのです。

ファーリーは町でも信用のある裕福な農夫で、とても嘘を言っているようには思えません。

更に10月末には、2人の男の子がフィッシャーの農場にある柵に血痕を見たという報告もありました。

場所は諸説ありますが、いちばん有力な場所には現在フィッシャーの看板が

ついにフィッシャーの遺体発見

その話を受けて、警察はフィッシャーの幽霊が現れ指差した場所を中心に捜査したところ、人間の歯と髪の毛を発見。

そこで追跡能力に優れたギルバート (Gilbert) という先住民男性も呼ばれて、徹底的に調べられました。

すると、まさにフィッシャーの幽霊が指差した場所から無残に埋められたフィッシャーの遺体が見付かったのです!

ウォラルはそれまでずっと容疑を否認していましたが、最終的に「自分の農場経営が上手くいってなかったので、フィッシャーに嫉妬して農場を自分のものにしようと犯行に及んだ」と認め、絞首刑が執行されました。

そして、現在のキャンベルタウン

事件が起こった場所周辺の地形は時代と共に変化していき、現在は小川の流れもなくなり雨水排水路のようになっています。フィッシャーの幽霊が出た正確な場所も、今となっては様々な諸説があり、はっきりとは確定されていません。

ですが、フィッシャーズの名前は現在も残っています。

フィッシャーがしばらく滞在していたウォラルの家は、その後タウンホールシアターに建て替えらえ、現在も使用されています。

しかし、ここで幽霊の目撃情報が多いので、フィッシャーが呪っていると主張する人もいるようです。

小耳に挟んだ情報によると、フィッシャーと話すために定期的に降霊術のようなことをしている団体がいるとか?

ちなみに、彼のお墓はキャンベルタウンの St. Peter’s Anglican Church の墓地にあります。

おわりに

今こうやって書いてみると、日本の怪談を聴き慣れてしまっている私たちには、どこでもありそうな捻りも何もないシンプルな話だと思ってしまいますが、当時の様子を考えると大騒ぎだったのでしょう。

幽霊が自分の埋められた場所を指差したという話は、もちろん警察の調書にはもちろん記されてはいませんし、作り話ではないかという説も存在します。

しかし、不幸にも命を奪われたもと流刑囚が、現在では知名度がなくなってきているとはいえ、後世に語り継がれているというのは、何とも言えない気持ちになりませんか?

舞台となったキャンベルタウンは1984年から埼玉県越谷市の姉妹都市として提携を結び、それに由来した Koshigaya Park や日本庭園などもありますが、私自身何度かそこへ足を運んだ感想としては、日本と関わりが深いというわりには驚くほど日本人が少ない不思議な地域だという印象です。

機会があれば、そんなキャンベルタウンのお祭りに参加したり、歴史巡りをしても良いかもしれませんね。

 

キャンベルタウンについてもっと知りたい人は、こちらの記事をどうぞ。

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