バンクス冒険記 〜植物学者の見た新大陸〜

バンクス冒険記 〜植物学者の見た新大陸〜

18世紀、イギリスの探検家ジェームズ・クックの活躍によって、それまでヨーロッパで謎とされていた南半球の全貌が明らかになり、オーストラリア大陸が孤立した大陸である事が分かりました。

クックの初めての南太平洋の航海 (1768年〜1771年) で、100年以上誰もヨーロッパ人が足を踏み入れなかったスターテンランド (ニュージーランド) とニューオランダ (オーストラリア) に上陸を果たし正確な地図を作成した事は、後世まで語り継がれる偉業でした。
クック船長が夢見た世界の果て

帰国後クックは昇格し、彼の体験を綴った航海日記はすぐに出版され有名になったのですが、この航海によりロンドン社交界でクックの数倍話題となり大人気を博した人物がいました。植物学者ジョセフ・バンクス (Joseph Banks 1743 − 1820)です。

彼は一見ワガママで傲慢な印象を受けますが、一方でとても魅力的でおもしろく、オーストラリアが植民地として発展していく過程で大きな影響力を持っていた人物でもあります。

 

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ジョセフ・バンクスという人

ジョセフ ・バンクスは世界的に見ればキャプテンクックよりも知名度が低いので知らない人も多いと思いますが、南太平洋の地域に行くと意外とで彼の名前を耳にする機会があるかもしれません。

例を上げるとオーストラリアではタスマニアのバンクス海峡 (Banks Strait)、シドニー郊外にあるバンクスタウン (Bankstown)、それにオーストラリアのワイルドフラワーとして有名なバンクシア (Banksia) も彼の名前が由来しています。

クックの探検航海に同行して、バンクスが南半球からイングランドに持ち帰った植物は全部で約3万382点5000種。そのうち1400種が当時まだ発見されていなかった新種でした。

彼の興味は植物だけにとどまらず、他にも珍しい哺乳類・鳥類・昆虫などの標本、原住民の観察記録など多岐に及び、その膨大な資料は彼の生涯をかけても整理しきれなかったほどでした。

この航海から帰国してしばらく経った1773年、当時イギリスの王であったジョージ3世はロンドンのキュー植物園 (Kew Gardens) の顧問にバンクスを任命し、バンクスは長年植物園の発展に尽力しました。(現在は世界で最も有名な植物園とし世界遺産になっています。)

Kew Gardens London

15世紀半ばから発展してきた航海技術によって次々とヨーロッパ諸国が新大陸を発見するようになり、新しい航路の開拓や香辛料などの貿易が盛んに行われていたと同時に、各国が領土拡大を求めて競っていた時代。

もともと植物の種類がそんなに多くないイングランドの人々は、海外の暖かい地域の植物に強い憧れや関心を持っていたので、南半球の珍しい植物は大いに注目を浴びました。

またバンクスは、オーストラリアの地を囚人の受け入れ先とする事を強く推進した張本人でもあり、1774年に政治界の進出を果たした彼は、1778年から42年間イギリス王立協会の会長を務めながらニューサウスウェールズの総督たちと密に連絡を取り、植民地の発展に尽力しました。

オーストラリアの重要な産業のひとつ、メリノ羊の導入を最初に提案したのもバンクスです。

そんな彼は「オーストラリアの父」と呼ばれる事もあり、1967年のオーストラリア$5札にもなっています。

Five Dollar Banknote 1967

本当は、バンクスも最初の航海から1年後のクックの第2回目の航海 (1772年〜1775年) に参加する気満々でした。

しかし、バンクスはあたかも自分が船の指揮官であるかのように振る舞い、助手や召使いだけならまだしもホルン奏者2名を連れて行くと言い出し、しまいには船が狭すぎると文句を付け改造してスペースを増やす事を要求。

まあ、iPhoneとかないし長期旅行には気晴らしが欲しいよね〜。

海軍は要求をのんで改造しましたが、船が不安定になり危険だったので元の姿に戻されました。

それに憤慨したバンクスに、海軍側はこれはバンクスひとりの為の航海ではない事を伝えましたが、カッとしたバンクスはこの航海をやめて、その代わりに実費で助手のソランダーを連れてアイスランドへ植物採集に出掛けています。

これだけを読むと、“何て勝手なヤツだろう” と思うかもしれませんが、彼の事を知っていくとこの行動も笑えてくるから不思議です。

人に恵まれたバンクス

さて、バンクスの名が世に知れ渡るきっかけとなったクックの最初の探検航海ですが、当時25歳だったバンクスが植物学者として調査団に抜擢されたのは、彼がイギリス王立協会や海軍に大きな影響力を持った友人たちに恵まれていたからではないかと言われています。

特にその友人の中でも四代目サンドイッチ伯爵ジョン・モンタギュー (John Montagu) は、この探検航海を強く支持したひとりで、バンクスとは子供の頃からよく一緒に遊んでいた幼なじみでした。

賭け事が大好きで食事の時間も惜しんでパンを挟んだ牛肉を片手にゲームをしていたサンドイッチ伯爵は、後に彼が食べていたようなパンに肉や野菜などを挟んだ食べ物がサンドイッチと呼ばれるようになったという由来を持つ、あのサンドイッチ伯爵です。

この航海の目的はタヒチで金星の太陽面通過を観測する事と、領土の拡大及び伝説とされていた南方の大陸を見つけ出す事。バンクスにとっては南方地域の珍しい植物を採集して研究する事でした。

当時の長期の航海は非常に危険で無事に帰って来れる保証はなく、バンクスの家族は大反対だったそうですが、もしも彼がこの航海に参加しなかったとしたら、自然科学界やオーストラリアの未来は大きく違っていたでしょう。

彼は航海に当たって実費1万ポンドで植物採集に必要な設備や道具を揃え、必要な人員を確保したばかりでなく、船上に自然学についての立派な図書館まで設けて万全な態勢で航海に臨みました。

幼い頃は勉強に全く興味がないやんちゃ坊主で政治家の父親はかなり手を焼いたようですが、少年だったある日に花の美しさに気付いて以来、可能な限りの植物に対する見聞を深めて来たバンクスにとって、この航海は希望に満ちたものだったに違いありません。

それと、バンクスを語る時にもうひとり忘れてはいけないのがダニエル・ソランダー (Daniel Solander 1733 – 1782) の存在です。

ソランダーはバンクスの助手としてこの航海に参加し、帰国後も脳梗塞で亡くなるまでバンクスに従事した、バンクスにとって重要な人物でした。

(ちなみにオーストラリアのビクトリア州には Daniel Solander Drive Endeavour Hills という住所があります。)

イングランドからタヒチへ

ではバンクスがキャプテンクックと共に航海した3年に渡る南太平洋の探検は、実際にどんな風だったのでしょうか。

1768年8月26日  エンデバー号と名付けられた調査団の船は、イングランドのプリマスから出航しました。

9月13日 当時イギリス領 (現ポルトガル領) だったマディラ(Madeira) に6日間滞在。バンクスは300種以上の植物を採集してます。

11月13日  トラブル発生。
船はポルトガル領 (現ブラジル) のリオデジャネイロ (Rio de Janeiro)に到着しましたが、海賊と間違えられて上陸出来ませんでした。
クックは何とか食料や燃料補給が出来るように交渉を続けます。

26日  暗闇の中、数人の船員と一緒にリオジャネイロ停泊中の船の窓からロープを伝って下のボート降りていくバンクスの姿がありました。

バンクスは船からこっそり抜け出して、植物や昆虫を採集したり庭農産物や海岸の調査をしたり、住民と仲良くなって食料などの購入までしています。こうして採集した植物は約315種類!

追っ手に捕まっていたらどうなっていたか分からない緊迫した状況の中、捕まる前に船に戻り無事ここでの任務完了!

すごい勇気と根性ですよね。

1769年1月14日  フェゴ島 (Tierra del Fuego)に到着。

ここで会った原住民たちはとても友好的で、クックはここを “Bay of Good Success” と名付けました。

早速バンクスは植物を採集すべくソランダーと黒人召使い1名船員2人を連れてフェゴ島の探検に出ますが、想像以上に生い茂る植物に足元を取られ、更に運の悪い事に雪が降って来た為、野宿する羽目になってしまいます。

その時に召使いと船員1名が寒さと疲労で命を落としてしまったのですが、そんな厳しい環境だったにも関わらずバンクスはしっかりと植物採集を完了させたそうです。
彼にはよっぽど強い使命感と意思があったのかもしれません。

バンクスの興味は植物だけに留まらず、鳥や爬虫類、魚、軟体動物、昆虫と多岐に渡り、原住民の生活習慣などもよく観察して記録に残しています。

航海の途中で病気になりかけた事もあったようですが、好奇心からサメや珍しい鳥などを調理して食べてみたりしていたお陰で結果的に栄養が取れていたようです。

4月13日  タヒチのソシエテ諸島に到着。
住民がヨーロッパ人に会うのは今回が初めてではなかったので慣れていて、とても友好的でした。

住民たちが豊富な食べ物をカヌーで運んで来たり、酋長たちと宴の場を持ったりと正に楽園そのものだったタヒチ。
タヒチの女性は魅力的で、島に住み着き女性と逃亡しようと考えた船員もいたというほど。バンクスもモテていたようです。

多少粗野ですが率直な性格のバンクスは、すぐに住民たちと打ち解けて現地の人たちの生活習慣を模倣したり同じ物を食べたりしました。

生まれて初めて口にする食べ物も多く、最初は吐き気がするほど嫌いだった食べ物を好きになるまで食べ続けてみたりと好奇心は尽きません。

その傍で果物栽培にも挑戦しています。

こんな居心地の良いタヒチでしたが、ただひとつだけ一行の頭を悩ませた事があります。

それは、住民が悪気なく何でも勝手に船員の持ち物を持って行ってしまう事。
危うく金星観測用の道具まで盗られて一時騒ぎとなりましたが、何とか取り戻しています。

6月3日  クックたちが無事に金星岬 (Venus Point) で金星の太陽面通過の観測を終了。
航海の目的であるひとつ目のミッションを完了させました。

7月13〜   南太平洋に詳しいというタヒチ人トウパイア (Tupaia) という青年が進んで案内係になってくれる事になり、彼の子供も一緒に船に乗る事になりました。

タヒチ島を出て8月の半ばまでソシエテ諸島付近を回り、その間もバンクスは島々の調査を怠りませんでした。

そしてエンデバー号は、ニュージーランドのある海域へ向かいます。

マオリの攻撃に遭いながらも

10月6日  エンデバー号船員のひとりであった青年ニコラス・ヤング (NicholasYoung) が陸地らしき物を発見。クックはそれにちなんでここを “Young Nick’s Head” と名付けています。

この岬は現在ニュージーランド北島の ギスボーン (Gisborne) という場所に当たります。

100年以上前にオランダのアベル・タスマンがニュージーランドを発見して以来、ヨーロッパ人が訪れていなかったこの海域にエンデバー号はついに到達したのでした。

8日  最初の陸地からそう遠くない Poverty Bay (劣悪湾) と名付けた湾に停泊。
この名前は、ここでエンデバー号は原住民のマオリと遭遇して攻撃されたからです。

かつて先人アベル・タスマンの部下が殺されてしまったように、エンデバー号も敵と見なされてしまいました。

クックはなるべく原住民を傷つけないようにと思いましたが、やむを得ず銃を発砲しマオリ側に数人の死者が出る惨事となり、上陸はあきらめています。

15日  タヒチ人トウパイアが連れてきた息子がカヌーでさらわれましたが、何とか泳いで無事脱出。その場所は誘拐岬 (Cape Kidnappers)と名付けられました。

物騒な名前ですが現在でもそう呼ばれていて、ここには世界的にも有名なゴルフ場がある事でも知られています。

画像: http://travel.qantasgolfclub.com

29日  大きなカヌーに乗ったマオリからの攻撃を受けますが、エンデバー号から大砲を打つと驚いて逃げて行きました。

基本的にマオリたちは攻撃的なことが多かったようですが場所によっては友好的なマオリたちもいて、少し北上した Tolaga Bay のマオリたちは、クック一行を家に招いたり物々交換をしたりしています。

そんな時は、バンクスも安心して動植物採集に没頭出来ました。

クリスマス時期になると咲くポフツカワ。

11月4日  更に北上したエンデバー号は、水星が太陽面を通過するのを観察を目的に上陸。そこは水星岬 (Mercury Bay) と名付けられました。

ここは、今でも自然に恵まれたリゾート地として知られるコロマンデル半島の東側にあるフィティアンガ (Whitianga) という場所で、マオリの祖先クペという人物が部族の人たちと共にニュージーランドに上陸した場所でもあります。

うっとりするほどきれいなコロマンデル半島の自然。

フィティアンガ のビーチ

船の新鮮な食事が尽きて来た事とバンクスの持ち前の好奇心から、船員たちは鳥を仕留めたりロブスターなどを見つけたりして食べたという記録も残っています。

実はタヒチとニュージーランドの祖先は元を辿れば同じポリネシアの人たちなので文化も言葉も酷似しています。だから、タヒチから一緒に来たトウパイアは通訳として重宝したのではないでしょうか。

ニュージーランド

タヒチ

オーストラリア!

さて、いよいよオーストラリア。

1770年4月19日  北の方向にオーストラリア大陸を発見。そこは現在のビクトリア州ヒックス岬でした。

4月29日  記念すべきオーストラリア初上陸。
現在のニューサウスウェールズ州にある、シドニーから少し離れたボタニー湾 (Botany Bay) に上陸しました。

実際のボタニー湾。

最初はエイが多いので スティングレイ湾 (Stingley Bay) とクックによって命名されていましたが、後にここで珍しい植物を採取したバンクスの思い入れから植物学湾 (Botany Bay) と変更されました。

バンクスは帰国後、この場所を囚人たちの流刑地にするように強く押しています。

ここで原住民のアボリジニとも出会っていますが、彼らはすぐに逃げて危害を加えられる事はなかったので、バンクスは心置きなく植物採集に没頭しました。

一行は5月5日まで滞在しています。

5月23日  現在1770と呼ばれる地域 (バンダバーグ近く) の Bustard Bay に上陸。

ここでもバンクスはマングローブやユーカリなどを発見して、動物や昆虫観察などに熱中しました。
でも、ペリカンは捕らえるのは難しかったそうです。

6月11日  夜、エンデバー号は珊瑚礁にぶつかり船が破損しました。
船は珊瑚に乗り上げて動かない上に浸水が酷く危なかったのですが、数時間に及ぶ船員の努力とクックの的確な指示により何とか岸に着くことが出来ました。

その岸がエンデバー川と名付けられた現在のクックタウン (Cooktown) の河口です。

ここに来るとオーストラリアの土が赤いのがよく分かります。

浸水によりバンクスが大事に倉庫に保管していた植物などの資料はダメになってしまったものもありましたが、船の修理に何週間も時間がかかったので、ここでも植物採集する時間がたっぷり持てました。

この時に初めて一行はカンガルーを見ており、バンクスはカンガルーの肉を食べています。

クックタウンにはカンガルーがごろごろいます。

体が大きいカンガルーは結構危険なんです。

バンクスがおいしいと評価したカンガルーの肉は、現在でもオーストラリア国内のスーパーマーケットに普通に売ってます。
栄養価が高くて柔らかいという事で、人気があるようですね。(私はあまり得意ではありませんが…。)

8月10日 出航。
近くの Lizard Island の島に上陸したり、他の島々も観察しています。

8月22日 クックがトレス海峡に近いケープヨーク上にある小さな島ポゼッション島 (Possession Island) にイギリスの旗を立て、東海岸一帯をイギリス王の土地とニューサウスウェールズと命名しました。

バタビアの悲劇

エンデバー号はニューギニアを通り小さな島に寄りながら、船の修理を兼ねてオランダ東インド会社の本拠地バタビア(現在のジャカルタ)を目指しました。

10月9日  バタビア (Batavia) に到着。
ところが、折しもバタビアではマラリアや赤痢が猛威を振るっていました。

蒸し暑い土地にオランダのような運河を作った為に、運河から蚊が大量発生してしまっていたのです。

1780年代のバタビア

多くの船員が病気に倒れ、船医、天文学者、画家、それにタヒチから一緒だったトウパイアとその子供も亡くなりました。

バンクスに雇われて精密な絵を描いてきた植物画家のシドニー・パーキンソン (Sydney Parkinson) も船上で亡くなってしまいました。(帰国後、パーキンソンの遺族に多額のお金を払っています。)

シドニー・パーキンソンの絵は今見ても素敵で、記念切手になったり本もたくさん出版されたりしていますので、興味があればちょっと覗いてみてください。↓
http://www.botanicalartandartists.com

南アフリカのケープタウンに着くまでに38人の死者が出て、バンクスやソランダー、クックまでもが熱にうなされましたが、彼らは生き延びました。

クックの厳しい食事管理のお陰で壊血病になった者はひとりもいないという快挙を遂げたのですが、帰国直前にして多くの使者を出してしまったのです。

1771年3月14日 ケープタウン到着。
バンクスはアフリカの女性について、きれいで生き生きしていてよく働いて、妻には最適という意味のような事を言っています。

帰国後のバンクス

7月12日  約3年の航海を終えてイングランドに帰国!
そしてバンクスは前述したようにロンドン社交界で大人気となり、時の人となりました。

その後のバンクスは、キュー植物園の園長や王立協会の会長などを務めながら多くの事業をこなし、探検旅行も精力的に出かけています。

膨大な数の植物を整理して本を出版する予定で長年取り組みましたが、結局バンクスが生きているうちには完成せず、出版されたのは100年以上後の20世紀に入ってからでした。

完成しなかったのは、植物画家のパーキンソンが全ての植物をスケッチしきれないうちに亡くなってしまった為、残りを他の画家に頼んで完成させなければならなかった事、その絵を元にして当時の印刷技術である銅板に絵を彫る作業が良い彫版師がなかなか見つからなくて遅れた事、それから植物に絵と一緒に付ける論文が進まなかった事などが挙げられます。

バンクスは多忙な事もあり、植物の論文をほとんどソランダーに任せきりにしていたのですが、1782年にソランダーが42歳の若さで亡くなってしまったと同時に論文もストップしてしまったのです。

実際バンクスは植物についての論文は多く手掛けておらず、科学者という仕事はほとんどしていません。

それよりも、自宅を解放して自然博物館を開いたり科学の会合を開いたり、自分の持っている資料や情報を快く人々にシェアして、決して個人的趣味として知識や情報をひとり占めという事はありませんでした。

人類共通の財産を多くの人たちと共有するというスタンスで、自分は推進する役目とばかりに科学の発展に貢献する努力を惜しみませんでした。

世界中にネットワークを作り、費用を負担して人材を集めたり、海軍が敵の船を捕獲した時に所持品の中に採集した物があれば、その科学者に返すべきと主張して助けたりもしました。

プライベートでは愛人や婚約者と呼ばれる人のウワサもありましたが、実際に結婚したのは1779年の36歳の時。子供はいません。

クックのその後

一方クックは中佐に昇進して穏やかな日々を送っていましたが、帰国から1年たった頃にもう一度伝説の島 テラ・オーストラリスを探すようにとの命令が下りました。

バンクスの今度の航海不参加の理由は最初に書いた通りです。

今回は、マリン・クロノメーターという新しく開発された緯度や経度を測定できるという機械の試用というミッションも加わり、 2度目の航海 (1772年~1755年) が始まります。

1773年1月17日に人類初の南極圏に突入

そしてニュージーランドに寄って、タヒチへ向かい、その後はフレンドリー諸島 (トンガ)、イースター島、クック諸島、ニューヘブリデス諸島、ニューカレドニア、グランドテール島、南ジョージア島、南サンドウィッチ諸島と次々に島を発見しています。

3年の航海を終えて帰国すると、クックはまたすぐに昇進。
今回も壊血病死亡者を出さなかった事を表彰され、海軍を休職してグリニッジの海軍病院の院長として働きました。

ところが落ち着いたと思ったのも束の間、今度は帰国から1年も経たないうちに3度目の航海に出ます。
今回は自分から志願して航海の参加を申し出ました。

クックの48歳の体は長年の航海で弱っていましたが、もしこの機会を逃すともう2度と海へ出られないかもしれないという思いがあったようで、前回の航海日記もそこそこに1776年6月25日にイングランドを出発。

今回のミッションは北アメリカを回れるようなルートを見つける事。

出発まで時間がなかったので航路もはっきりと決定していないままで、船もクックがチェックしなかったので少し不備がありました。
そしてクックの体調も芳しくなく、そのせいかイライラして船員といざこざを起こす事が増えたと言います。

1778年11月  ハワイ諸島に最初のヨーロッパ人として訪れた時、クックは島民に神として崇められました。

その後いよいよイングランドに戻る事となり、ハワイ島の住民から盛大に別れを惜まれながら出航した時、運命の事件が起こります。船のマストが折れていたのです。

もう一度修理の為に島に戻った時、島民の態度が一変して冷淡になりました。
神であるクックの船が壊れて戻って来たので不吉だと思ったのかもしれません。

The death of Captain James Cook, 14 February 1779

船員と島民たちの間で盗難事件などのいざこざが起こり、1779年2月14日に先住民の槍で背中を刺されたクックは、そのまま亡くなりました。享年50歳。

指揮官を失った船は、翌1780年になってイングランドに戻っています。

クックには6人の子供がいましたが、みんな病気や事故などで亡くなってしまい、子孫は残っていません。
彼の奥さんであるエリザベスは、常に黒い服を来て93歳の大往生だったそうです。

おわりに

バンクスとクック、2人ともタイプは全く違い全く違う人生を歩みましたが、どちらも人に慕われるリーダーでした。

こうやってこの2人の事を書くことが出来て、本当にエキサイティングで楽しい体験でしたが、ひと記事にまとめようとすると大変な作業ですね。

自己満足ですが、もう少し続編を書くかもしれません。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。