11月というと日本は冬に入りますが、オーストラリアは夏に突入です!
私は日本人なので夏と言えばやっぱり怪談が恋しくなるもので、そんな時ちょうどオーストラリアの本当にあった幽霊の話を入手しました。
この国はイギリスのように古い歴史があるわけではないですが、怖い話はそれなりに存在しますし、シドニーのロックスやその他複数の地域で心霊スポットを見て回るゴーストツアーも随時開催されていて人気があります。
でも今回紹介したいのは、シドニー郊外にあるキャンベルタウン (Campbelltown) で19世紀に本当に起こったフレッド・フィッシャー (Fred Fisher) という開拓者の幽霊話です。
この辺りは幽霊の目撃情報が多いそうで、現在でもキャンベルタウンでは彼の幽霊に由来したフィッシャーズゴーストフェスティバル (Fisher’s Ghost Festival) が毎年開催されています。
お祭りになる幽霊とは、当時一体何が起こったのでしょうか?時代を遡って見ていくことにしましょう。
フレッド・フィッシャーの物語
毎年11月にキャンベルタウンで開催されているフィッシャーズゴーストフェスティバル (つまり日本語でフッシャーズの幽霊祭) は、かわいいお化けのキャラクターが印象的で、パレードあり、移動遊園地ありで全く怖いイメージはありません。
しかし、このお祭りの元となった話は全く愉快ではなく、現在でも起こり得るような犯罪事件です。
ただ、その事件の被害者フレッド・フィッシャーの幽霊が現れたという事実は、当時の人たちにとってとてもインパクトがあったのでしょう。1956年から始まったお祭り以外にも、1924年に無声映画で公開されたり、1961年にノースシドニー出身のミュージシャン Johnny Ashcroft によって歌になったりしていますし、1832年にこの事件について新聞に匿名で書かれた詩「The Sprite of the Creek!」をもとに、アメリカ人の超常現象研究者ジョー・ニッケル (Joe Nickell) も本を書いたと言われています。
有罪判決を受けたフレッド・フィッシャー
フレッド・フィッシャー (本名 Frederick George James Fisher) は1792年8月28日にイギリスのロンドンで生まれ、1815年に有罪判決を受けるまでは小売店で商売をしていました。
しかし、偽札事件に関わってしまったことが原因で有罪判決を受け、当時流刑地として使われていたイギリスの植民地であるオーストラリア大陸に14年間の刑を言い渡されてしまいます。
こうして1818年に囚人としてオーストラリアに送られて来たフィッシャーは、収容所で事務員として働きました。そして、その立場を利用し社会的コネを作りながら、4年後の1822年には晴れて仮釈放の身となったのです。
そこで彼はシドニーから南西におよそ約53kmほど離れたキャンベルタウンという場所に広い土地を得て、農場を経営し始めることにしました。
現在のキャンベルタウン中心部
現在キャンベルタウンはそれなりに栄えた町になっていますが、入植したばかりだった当時はまだ開拓され始めたばかりの何もない田舎の農村地です。彼はそんな土地を開拓し、順長にビジネスを展開していました。
それなのに、まさかこの後に彼の身に不幸な事件が起こるとは、誰が想像したでしょうか?
謎の失踪事件
1825年、ある日フィッシャーは農場の設備について大工と口論になり、ナイフまで持ち出す騒ぎを起こしてしまい、再び有罪の判決を受けてしまいました。
軽い罪だったので数カ月ほどの刑期で釈放される予定だったとはいえ、長期で農場を不在にしなければいけません。
そこでフィッシャーは、隣人で彼と同じく元囚人の農場経営者ジョージ・ウォラル (George Worrall) に自分が不在中の農場を管理をしてもらうように依頼しました。
(ちなみに、その時のウォラルの家はタウンホールシアターに形を変えて現在でも残っています。)
Queen St にあるタウンホールシアター
そして1826年、刑期を終えてキャンベルタウンに戻ってきたフィッシャーはしばらくウォラルの家に滞在。しかし、6月17日を境に彼はこつぜんと姿を消し、以来誰もフィッシャーを見る人はいませんでした。

ウォラルはそう周りに話していましたが、フィッシャーはまだ囚人という立場で完全に自由市民になったわけではありません。そんな彼が逮捕のリスクまでおかして帰国するというのは不自然で説得力がなく、人々は不信に思いました。
しかも、ウォラルはその3週間後にフィッシャーの馬や財産を売却するという怪しい行動を取ったため、警察は9月にウォラルを殺人容疑で逮捕します。
が、フィッシャーの遺体は依然として発見されず、ウォラルが犯人だという証拠が不十分のまま時が過ぎていくばかりでした。
橋の上の幽霊
そんなフィッシャーの謎の失踪から4カ月後、ある夜に奇妙な出来事が起こりました。
地元のホテル Patrick’s Inn に、農夫のジョン・ファーリー (John Farley) が血相を変えて入って来て、橋の上でフィッシャーの幽霊を見たと言うのです。

ファーリーはびっくりして悲鳴を上げた後、何とか「お前…、イギリスに戻ったんじゃなかったのか?」と声をふりしぼって聞くと、フィッシャーは何も答えずただ黙って橋のたもとの牧草地を指差してからスッと消えてしまったそうです。
ファーリーは町でも信用のある裕福な農夫で、とても嘘を言っているようには思えません。
更に10月末には、2人の男の子がフィッシャーの農場にある柵に血痕を見たという報告もありました。
ついに事件解決
そこで警察はその幽霊が現れたという場所を中心に調査を開始。すると、人間の歯と髪の毛を発見したので、追跡能力に優れたギルバート (Gilbert) というアボリジニ男性も呼ばれて徹底的に調べられました。
すると、まさにフィッシャーの幽霊が指差した場所から無残に埋められたフィッシャーの遺体が見付かったのです。
ウォラルはずっと容疑を否認していましたが、最終的に自分の農場経営が上手くいってなかったのでフィッシャーに嫉妬し農場を自分のものにしようと犯行に及んだという事を認め、絞首刑になりました。
フィッシャーのお墓は、キャンベルタウンの St. Peter’s Anglican Church の墓地にあります。
現在にも残るフィッシャーズゴーストの名前
その後
こうやって書くとシンプルな内容ですが、当事者たちはびっくりしたに違いありません。
幽霊が自分の埋められた場所を指差したという話は、もちろん警察の調書にはもちろん記されてはいませんし、作り話ではないかという説も存在します。
しかし、この話は19世紀に実際に起こった不思議な出来事として、現在でも語り継がれているのです。
一連の事件が起こった地域の地形は時代と共に変化していき、現在は小川の流れもなくなり雨水排水路のようになっています。フィッシャーの幽霊が出た正確な場所も、今となっては様々な諸説があり、はっきりとは確定されていません。
おわりに
フィッシャーは不幸にも命を奪われた当時の一般的な囚人のひとりであり、幽霊の話がなかったら彼の名は後世に残る事なく忘れられていったでしょう。
舞台となったキャンベルタウンは1984年から埼玉県越谷市の姉妹都市として提携を結び、それに由来した Koshigaya Park や日本庭園などもありますが、私自身何度かそこへ足を運んだ感想としては、日本と関わりが深いというわりには驚くほど日本人が少ない不思議な地域だという印象です。
機会があれば、そんなキャンベルタウンのお祭りに参加したり、歴史巡りをしても良いかもしれませんね。