かつて賑やかだった Sir ジョセフ・バンクスホテル周辺の隠れた歴史を追って

タイトルで勘違いしそうな人もいるので最初に書いておきますが、この記事はキャプテン・クックと共にエンデバー号でシドニーに上陸したジョセフ・バンクスとは直接関係ありません。

シドニー中心部から11kmほど離れた郊外、ボタニーにある彼の名前がついたSir ジョセフ・バンクスホテル』とその周辺にまつわる歴史についてです。

最初は軽い気持ちで調べていたのですが、想像以上に濃厚な歴史がたくさん出て来たので、とても驚きました。

というのも、ボタニーは現在ではそんなに知名度のない静かなサバーブですが、かつては人気のレジャースポットで、オーストラリア初の動物園があったことを知ったからです。

今では想像出来ないこのことは、間違いなくあまり知られていないオーストラリア (シドニー) の隠れた歴史のひとつに違いありません。

これだから探検はやめられませんね!

 

ジョセフ・バンクスとボタニーという地域

直接記事の内容とは関係ありませんが、ホテルの名前の由来となったジョセフ・バンクス (Joseph Banks 1743-1820) について簡単に説明しておきます。

 

ジョセフ・バンクスは、ジェームズ・クックとともにエンデバー号でオーストラリア大陸に来た植物学者です。

ボタニーベイは、4月29日に彼らが最初に上陸した場所でした。

彼は助手のダニエル・ソランダーと数日かけて初めて見るオーストラリアの植物を収集し、故郷イギリスに持ち帰って紹介しています。

バンクシアの名前はバンクスの名前が由来となっていることは、とても有名です。

Banksiaオーストラリア固有植物バンクシアの花

また、バンクスは政治家でもあり、オーストラリアを流刑地に!と強く押した人物であることから、かつてはオーストラリアにおける「植民地の父」とも呼ばれていました。

 

ですが、現在ではジェームズ・クックに比べると、あまり知名度がありませんよね?

だから、「オーストラリアにはジェームズ・クックの銅像はたくさんあるのに、ジョセフ・バンクスはあるんだろうか?」という素朴な疑問から始まりました。

そしてリサーチしていたら、シドニー郊外のボタニーバンクスタウンがヒットし、特にボタニーに『Sir Joseph Banks Hotel』『Sir Joseph Banks Park』まで存在することを発見したんです。

Sir ジョセフ・バンクスホテル

Joseph Banks

そして辿り着いた Sir ジョセフ・バンクスホテルでは、中にも入って食事もしてみました。

Joseph Banks

小さいですが、パブスペースでは壁にバンクシアの花が描かれていてかわいかったです。

シドニーとニューサウスウェルズ州の観光ブログ

 

ですが、このホテルは1920年から営業開始している新しい建物で、実はオリジナルの旧 Sir ジョセフ・バンクスホテルは、この奥の道、Sir ジョセフ・バンクスパークの手前にあります。

Joseph Banks

現在はアパートとして使用されている 23 Anniversary Street に残っているオリジナルの Sir ジョセフ・バンクスホテルは、オープン当初は『Banks Inn』という名前でした。

1940年代のジョージアン様式の建物ですが、1870年代に追加されたイタリア様式部分も混じっています。

重要な歴史的建造物として1999年4月2日にニューサウスウェルズ州の遺産に登録されました。

1840年〜 ホテルの建設

1834年、ボタニーロードと現在の Anniversary Street と Fremlin Street、そして Tupia Street を含む30ヘクタールの広大な土地が売りに出されました。

その土地を、もとイギリスの軍人だったトーマス・ケレット (Thomas Kellet) とジェームス・ドリュー (James Drew) 購入。1840年にホテルを建設を開始し、1844年に営業を始めました。

しかし、ドリューはホテルの権利をケレットに売却。

ケレットはパン屋や庭師、パブの経営者でもあったため、シドニー中心部でやっていたビジネスをボタニーに引き継ぐことが可能でした。

こうしてトーマス・ケレットは彼のビジネス手腕を発揮すべく、広く宣伝を始めます。

ただ、シドニーの中心部から離れている立地だったため「まるでアラビアの砂漠のようだ。名前の由来になっている “植物 (Botany)” よりも、蛇の方がたくさんいる!」などと揶揄する人もいたようです。

1846年〜 動物園とプレジャーガーデン

Sir Joseph Banks Park現在の Sir Joseph Banks Park にて

1846年、ケレットはホテルと周辺の土地を7年+2年つけて、建設業を営んでいたイギリス人ウイリアム・バーモント (William Beaumont) に貸し出しました。

そしてバーモントは、義理の兄弟であったウォラーと共に壮大な計画を立てます。

それは、Sir ジョセフ・バンクスホテルとその敷地のプレジャーガーデンと呼ばる庭園を、シドニー最高のレジャー施設にすること、です。

こうして1850年代頃のホテルは美しく整備された庭園とプライベート動物園、アウトドアスポーツ施設がある場所として知られるようになります。

オーストラリア初の動物園には、ベンガルタイガー、ヒマラヤ山脈のクマ、巨大な猿、インドゾウ、グリズリーなど、エキゾチックな動物を見ることが出来ました。

その他にも乗馬、クリケット、サッカー、800メートルの桟橋、手漕ぎボート、演劇、ボクシングの試合やフェスティバルの開催、一流シェフの料理などが楽しめる場所として黄金期を迎えます。

シドニー中心部からボタニーまでは整備されていない道路が続く不便な場所にも関わらず、1851年のボクシングデー (12月26日) にはシドニーの人口 60,000 人のうち 5,000 人が訪れたようです。

 

ちなみに、1851年と言えばオーストラリアのゴールドラッシュが始まった年で、このゴールドラッシュによりオーストラリアの人口が爆発的に増えています。

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1861年〜 衰退していくホテル

ウイリアム・バーモントは、1861年までホテルに滞在していました。

その頃になるとトーマス・ケレットの事業は傾き始め、土地を売却しようとしましたが売れ前んでした。

1868年にケレットが亡くなった後は、債権者だったジョン・ニール (John Neale) が財産の全てを取得。その後、ホテルは何度も経営者が変わりました。

1882年には、かつてシドニーを走っていたトラムがシティからボタニーまで繋がり、そのお陰でホテルへのアクセルがかなり便利になっています。

1855年〜 レジャースポーツ施設へ

1875年に起業家のフランク・スミス (Frank Smith) がホテルを購入し、1884年から1892年の間に多くの有名なランニングのレースを確立したことで、 Sir ジョセフ・バンクスホテルは、レジャーとスポーツの場所として有名になりました。

1884年5月に最初の Sir ジョセフ・バンクスハンディキャップレース開催から始まり、1888年には122人のランナーが Sir ジョセフ・バンクスゴールドカップレースに集まったと言います。

3千人収容可能な観客席と、5レーンの徒競走用トラックで開催されるそのランニングレースいは、高額な賭け金もかけられ、世界チャンピオンを含む多くの国内外のアスリートたちで沸きました。

アイルランドのお祭り「セントパトリックスデーカーニバル」というスポーツイベントも20年にわたってホテルが主催しましたし、その他にもポニーレースやオーケストラコンサートなど、様々なイベントを主催しています。

しかし、スミスは1880年代後半にいくつかのスキャンダルと、レースに伴うギャンブラーの増加で経済的に困窮し、巨額の借金と未払いのローンを残して1893年1月に50歳で亡くなりました。

その後は1908年までシドニーの民間企業が所有権を取得し、その間ボクシングは大きなアトラクションのひとつになっていました。

最も有名な訪問者はアフリカ系アメリカ人のジャック・ジョンソン (Jack Johnson) です。

彼はシドニースタジアムの世界選手権の試合でアメリカ人トミー・バーンズを破る前に、Sir ジョセフ・バンクスホテルでトレーニングをしています。

1908年〜 ホテル売却

1908年、ホテルと敷地は Sir ジョセフ・バンクスエステート株式会社に売却され、名前も『オリンピックレクリエーション & ピクニックグラウンド (Olympic Recreation and Picnic Grounds』に変更されました。

1908年3月21日にオーストラリア最初のラグビーリーグが行われたのも、この場所でした。

そして、ボタニーロードに現在の Sir ジョセフ・バンクスホテルがオープンしたのは1920年のことです。

この頃になると敷地の区画は小さく分割され、1922年から1948年にかけてホテル周辺の土地は、住宅や店舗、公園などに開発されていき、プレジャーガーデンの面影も次第になくなっていきました。

しかし、ホテルだけは大き過ぎて使用用途がないまま、残っていたのです。

1930年にホテルが競売にかけられた時、重要なオーストラリアの遺産がアパートを建てるために取り壊されることを恐れた実業家ジェームズ・ラトリー (James Ruttley) が購入。

その後、間もなく彼は亡くなってしまったのですが、娘のドリス・ラトリー (Doris Rutley・苗字のスペルが微妙に違います) が夫とここに越して来て、1983年12月に彼女が亡くなるまでホテルを守っています。

彼女はこの場所が好きで、父、兄弟、夫に先立たれた後も、草刈りや大工仕事だけではなくペインティング、コンクリート作業など、修繕のほとんどを自分でまかないました。

第二次世界大戦中には、このホテルにトブルクのネズミ (Rats of Tobruk) として有名な第9師団も宿泊しています。

ドリスの父親はホテルの代金を全額支払っていなかったので、1944年に競売にかけられましたが、ドリスが1600ポンドで買い戻し、戦後はホテルの一部をアパートとして貸し出していました。

もし彼女がいなかったら、このホテルももしかしたら朽ちていたかもしれません。

ドリスの死後は、ホテルの修繕費や維持費をめぐって言い争いもありましたが、2000年に再び売却され、アパートに改装されています。

1988年〜 公園の建設

Joseph Banks

20世紀の初めには、かつて賑やかだったお出掛けスポットの面影がなくなってしまったのですが、1988年にボタニーのカウンシルと地元産業の資金提供と協力により、Sir ジョセフ・バンクスパークが作られました。

そこでは当時のランニングトラック、オーバル、庭園が再現され、ジョセフ・バンクスの銅像やバーモントの動物園もコンクリート製の動物も作成されています。

そして、池やピクニックエリア、遊具などのある大きな公園として、現在も地元の人たちで賑わう憩いの場となりました。

1894年から1930年代まで開催されていた Botany Bay Gift というランニングレースも、復活。2001年まで続けられました。

1994年の画像がありましたので、貼っておきます。

おわりに

Sir ジョセフ・バンクスパークのあちこちに建てられている看板で、私たちは過去にここで何があったのか知ることが出来ますが、今日のような静かなサバーブからは信じられないかもしれません。

でも、たまには当時の様子に思いを馳せてみるのも面白いものです。

 

参考にした資料: NEWSLETTER AUGUST 2020 | Bayside Council