書籍 『木曜島の夜会 』司馬遼太郎

書籍  『木曜島の夜会 』司馬遼太郎

『木曜島の夜会』は昭和51年に別冊文藝春秋に発表された司馬遼太郎の小説で、昭和52年に単行本化されています。同書には『有隣は悪形にて』『大楽源太郎の生死』『小室某覚書』も収録されています。

タイトル: 木曜島の夜会
著者: 司馬遼太郎
出版社: 文藝春秋 (文春文庫)
発売: 2011 (新装版)
※ 私が持っているのは1980年が初版のバージョンですが、新装版は文字が大きく読みやすくなっているようです。

木曜島の夜会 (ebook Japan 電子書籍)

明治初期から昭和初期にかけて、オーストラリアの北にある木曜島という小さな島に多くの日本人が出稼ぎに来ていました。そんな彼らの軌跡を辿る、日本人について改めて考えさせられるような小説です。

 

とても情報量が多く読み応えがあります。言葉遣いや時代背景を理解するのに多少難解な部分もありますが、読めば読むほど味が出るというか、まるでその時代にタイプスリップした感覚になるというか…。前半は興味深い歴史的事実、後半は情緒的で、読み終わってもずっと余韻が残り何度も定期的に読み返したくなるような本でした。

 

Advertisement

木曜島の夜会

まず木曜島 (Thursday Island) ですが、オーストラリアに行った事がある人や住んでる人でも「どこだっけ?」と思う人が多いのではないでしょうか。日本のガイドブックにもほとんど情報が載ってない地域ですし、それも無理もありません。

木曜島はオーストラリア大陸の北、熱帯地域ケアンズから更にずっと北上したトレス海峡諸島の中にある小さな島で、以前は無人島でしたが19世紀に貝採取が始まって以降は人が住むようになり、現在はメラネシア系の人たちによる独特の文化が根付く島のひとつとして知られています。

小説の中で木曜島は “日本の百科事典に載っているがオーストラリア本土ではほとんど知られていない島” と表現されていますが、何しろ40年以上前の小説なので、今でも百科事典に載っているのかどうかは分かりません。ただ、かつてはそれくらいの知名度があったのでしょう。

 

トレス海峡諸島についての関連記事

当時盛んだった貝の採取

西オーストラリア州のブルームも古くから真珠が採れる事で有名ですが、当時の木曜島では真珠は二の次で白蝶貝黒蝶貝高瀬貝などの貝殻の採取が盛んでした。この種の貝は高級ボタンの材料となり、ボタンは当時貧しかった戦前の日本では一般人が手にする事が出来ないほど高価だったそうです。

QLD州クックタウンのキャプテン・クック博物館にて

19世紀に入ってそんな宝の山が木曜島付近の海底にあると気付いたヨーロッパ人の商人たちは、命の危険を省みず圧倒的な仕事をこなす日本人を好んで雇っていたのですが、第二次世界大戦勃発してオーストラリアの敵だった日本人は捕らえられ採取作業はストップ。戦後は合成樹脂が現れた事によって貝の需要がなくなり、仕事自体が消滅してしまいました。

白蝶貝の採取に従事した日本人は約7,000人で、和歌山県出身者がその8割を占めたと言われています。
島の人々とともに活躍し、漁場の発見、漁法の改良を通してこの漁業を基幹産業とするなど白蝶貝採取事業を同地域の一大産業に発展させました。
採貝産業の中心地となったのが木曜島で、明治30年頃には同島の日本人渡航者の数は1,000人を越え、一時は全人口の60%を占めるまでに至りました。(串本町のホームページより)

この小説に出てくる登場人物もほとんどが和歌山 (熊野) の人たちです。

日本人の特徴と時代背景

小説前半では、かつて木曜島でダイバーをしていた4人のおじを持つ “甥” とその友人の “私” を中心に、大正9年に19歳で木曜島に渡ったという宮座鞍蔵や昭和4年渡濠組だった吉川百次などの回想から、当時の様子が詳しく語られます。

明治〜大正〜昭和とまたがる物語の端々には戦争や景気変動など様々な時代的な背景が出てきますが、当時の人々の様子が生き生きと感じられるのもこの小説の魅力だと思います。

特に私が好きだったシーンは「当時15歳に満たなかった吉川百次が木曜島に行った時に “大正の人間が来た” と明治生まれの人たちに珍しがられた」という話で、私もよく「平成生まれ?若っ!」と言っていたのを思い出して、いつの時代も人の反応って変わらないなとおかしく感じました。こんな風に細かいエピソードも散りばめられているので面白いです。

〜メモ〜
明治 1868年10月23日〜1912年7月30日
大正 1912年7月30日〜1926年12月25日
昭和 1926年12月12月25日〜1989年1月7日
日清戦争 明治27年 (1894年) 〜 明治28年 (1995年)
日露戦争 明治37年 (1904年) 〜 明治38年 (1905年)
第一次世界大戦 大正3年 (1914年) 〜 大正7年 (1918年)
第二次世界大戦 昭和14年 (1939年)〜 昭和20年 (1045年)

当時、家計を助ける為に14歳から渡濠する人もいて、最初はヨーロッパ人の親方の元で船の炊事係のようなクルーの仕事から始まり、複雑な帆の操作などを身につけながらダイバーの座を狙っていたと言います。

30人に1人がなれるというダイバーの仕事は、殿様のように周りにちやほやされて高賃金な代わりに、危険と隣り合わせの仕事でした。

実際1908年〜1912年の間に10%の日本人ダイバーが命を落としたそうで、仲間が船上から送る「えいやあ」と呼ばれる空気が命綱、潜水病やサメに襲われるリスクもあります。

にも関わらず、他の国の人たちとは対照的に日本人だけが競ってダイバーになりたがりました。クルーたちは殴られるリスクを犯しながらも先輩の潜水服を着てこっそり見様見真似で練習していたと言うのですから、その情熱には驚かされます。

オーストラリア国立大学のシソンズ教授の研究記録によると、海軍を退役した白人の元水兵やどんな人種の人たちよりも、日本人ほど命の危険も省みず貪欲に働き、貝採取に適した人種はいなかったと。

ただ、これには時代も関係していて、日本は明治に貨幣経済になった事で自給自足や米での納税が不可能になり、生活出来なくなった人たちの深刻な貧しさが背景にあります。

でも興味深いのは、日本人ダイバーはそのうち仲間同士の競い合いや1日何トン水揚げしたかという記録を出す事そのものに熱中していき、賃金の事は忘れて夢中になるという話です。宮座鞍蔵が「あれほど面白い事はなかった」と言うように、頭を使う親方仕事は楽な反面、面白味がないので誰もなりたがらなかったという、他国の人たちとは逆の考え方をしています。ダイバーをしていた本人は「日本人の性」と言ってましたが、そうなのでしょうか?

それから、もうひとりのおじ湊千松のダイバーをあきらめて西オーストラリア州で金持ちになったという話や医療ミスなどの話題も興味深かったです。

 

Advertisement

1976年のオーストラリア

後半では “私” と甥が実際に木曜島に行くのですが、1976年当時なので40年以上も前の話になります。

「20年前のシドニーは何もなかったのよ」と昔からシドニーに住んでいる人に聞いた事があるので、40年前は更に何もなかった事は容易に想像出来ます。でも、ケアンズを「西部劇に出て来そうな町」と言っていた事には少し驚きました。ケアンズは現在でも田舎ですが、さすがにそれなりの町なので、やはり時代を感じます。

少なくとも10年前は西部劇ではなかった

そして当時はケアンズ直行便なかったのか、日本からシドニーに飛んで1泊、シドニーから国内線でブリスベンに飛んで1泊、それからやっとケアンズから飛行機で木曜島と、何度も飛行機を乗り換えているのは大変そうでした。木曜島に着いた時に「あれだけの体力と時間をつかってやってきた代償としては、美しさに欠けていた」と思ってしまうのも仕方ないほどの労力です。

ただ、これは憶測ですが、人々のライフスタイルはかなり変わったとはいえ、木曜島は現在も時間がゆったりと流れる当時とはそんなに変わっていない町なのではないだろうかという気がします。

70年代、島は夜になるとする事がないので毎晩のように夜会が開かれ、女性はロングドレス、男性は白いソックスさえはいていれば正装になったと言います。多くの白人たちは本土では志を得なかった人たちで金銭に関してめざとく、観光客が来ればすぐに島中の知れる所となるという小さなコミュニティの様子がリアルです。

ある夫婦の老後

登場人物の話はどこまで実話なのかは分かりませんが、私はダイバーからそのまま島に残って現地の女性と結婚したという藤井さんに深く感情移入してしまいました。

若い頃、彼を島に引き止めようと必死に彼のビザや家計の支えなど色々と奔走してくれた現地の女性と一緒になった藤井さんは、ほとんど日本に帰らず歳をとった今、郷愁の思いが募り時々淋しくなって物思いに耽ります。

彼は昭和45年に45年ぶりに一度日本に帰ったそうですが、あまりの変わりようで日本という実感がわかなかったそうです。昔は服装を見たら職業が分かっていたのに、全ての人が背広を着ていて不思議だったと。

私はそこまでではないですが、故郷から自分だけ取り残されたような虚しさやよく知ってたはずの場所はもうこの世に存在しないという喪失感など、私自身が体験した感覚を彼もきっと持ったはずで、まるで自分の事のように感じながら読みました。情景が手に取るように目の前に浮かんで来るようなのですが、自分とは時代が全然違うという事を思い出して、何度もハッとする変な感覚。

そして、遠くを見つめる夫とそれを遠くから見守り「日本人はやっぱり日本人だ」とたまらない気持ちになって陰で泣く妻の姿。そんな夫婦の老後の形は私には想像が及びませんが、また何年後かにこの小説を読み返してみたい、そんな風に思いました。

その他の短篇小説

収録されている他の短篇小説はどれも幕末頃の話で、歴史に忘れ去られてほとんど誰も注目しないような人物に焦点が当てられています。

有隣は悪形にて (昭和47年発表)

幕末の長州藩 (山口県) に近代日本の出発点と言われる私塾を開いた吉田 松陰 (吉田寅次郎) に散々助けられたにも関わらず感謝するどころか恩を仇で返し、周りには小物と称され歴史の片隅に姿を消した富永有隣の物語。伊藤博文や高杉晋作なども少し登場します。

傲慢な有隣の虚栄心や嘘に騙された人間も少なからずいたようで、年老いた彼と会った国木田独歩は有隣をモデルに『富岡先生』という短編集を書いていますが、かなり好意的に書かれているのが面白いです。

大楽源太郎の生死 (昭和47年発表)

前話の富永有隣と同じ時期に同じく長州藩で生きた大楽源太郎の物語ですが、後世にある男性が「大楽源太郎」という研究書物を書いた人と出会う所から始まります。

吉田松陰や高杉晋作らと同じ時代を生き、勝海舟や西郷隆盛などとも交流があったにも関わらず歴史の中に大きな名前を残す事もなく消えてしまった太楽について、ある人は運が悪かった、もしくは生まれた時代が不運だったと解釈します。

地位や名誉を得る為の泥臭い人間関係、対抗心、虚栄心、自己顕示欲、嫉妬、面子の為に生死をも左右されるなど昔の武士もなかなか苦労が多く、人間臭い大楽の人生が垣間見れました。

小室某覚書 (昭和42年発表)

自由民権運動の板垣退助と共に名を連ねながらも、その存在は歴史から姿を消して行った小室信夫の物語。

読み進めていくうちにだんだんと、乱世でなければ一介のちりめん商人に過ぎなかったであろう彼の時代に翻弄される姿が見えてきます。筆者の目の付け所が面白いと思いました。

おわりに

長くなってしまいましたが、日本人のあまり知られていない過去を知る事は大切だと思うので、興味があればぜひ手に取って読んでみてください。私はもう少し日本史を勉強しようという気分になりました。

そんなに厚い本ではないのですが、読み応えは十分です。