最後のブッシュレンジャー『ネッド・ケリー (Ned Kelly)』の辿った人生

オーストラリアで知らない人がいないくらい有名なネッド・ケリー (Ned Kelly) ですが、オーストラリア以外では知らない人が多いのではないでしょうか。

彼は19世紀に実在したブッシュレンジャー (ギャング) で、彼にまつわる小説、映画、芸術作品など、どのオーストラリア人よりも多く残されていると言っても過言ではありません。

彼については賛否両論で、ある人は英雄に値しない悪人だと言い、ある人はヒーローだと称賛します。

どちらにしても、権力に強い抵抗を示した最後のブッシュレンジャーのネッド・ケリーは、今日まで多くのオーストラリア人に影響を与えて来た存在というのは間違いないでしょう。

オーストラリアで彼の名前を知った人は、誰?何した人?と思うのではないかと思うので、今回はそんなネッド・ケリーの生涯を詳しくまとめました。

映画や小説では色んなバージョンがあるので、見比べてみるのも面白いかもしれませんし、事前に予備知識があると作品の理解が深まり、より楽しめると思います。

歴史的事実は存在しますが解釈や意見の違いもあるので、なるべく客観的事実だけを書きました。どう感じるかはあなた次第です。

長いので、時間のある時にどうぞ。

生い立ち

ネッド・ケリー (Ned “Edward” Kelly 1854 -1880) が生きた19世紀のオーストラリアは、まだ国ではなく植民地でした。そして、多くの流刑囚たちがイギリスから送られて来ていた時代です。

人々は、財力のあるスクォター (Squatters) と貧しいセレクター (Selectors) に分かれていて、スクォターは富や名声を使って権力者と繋がり、セレクターたちとの間に不平等が横行していました。

ネッド・ケリーの最も有名な写真 (1880年)

ネッドは1854年12月、ビクトリア植民地のビバリッジ (Beveridge) という町でアイルランド移民ジョン・ケリーとエレンの間に生まれた3番目の子供でした。

ネッドの父親ジョン・ケリー (John “Red” Kelly 1820 – 1866) は、1841年にアイルランドで2頭の豚を盗んだ罪で7年の有罪になり、流刑囚として当時バン・ディーメンズランド (Van Diemen’s Land ) と呼ばれていたタスマニアに送られたもと囚人です。

母親のエレン (Ellen 1832 – 1923)は、アイルランドの農夫クイン家の (Quinn) 11人兄弟の四女で、1841年7月に家族でオーストラリアのポートフリップ (Port Phillip) へやって来た自由移民でした。

ジョンは1848年1月に刑期を終え、ビクトリア州 Wallan Wallan にあったクイン家の農場でブッシュカーペンターとして働き、そこでエレンと出会いました。

ジョン30歳、エレンの18歳だった1850年に2人は結婚しています。

1851年にはオーストラリアのゴールドラッシュが始まり、多くの人が金塊を見つけようと鉱山に押しかけましたが、ジョンもその流れに乗り、一時期は鉱山で大金を稼いでいた事もあるようです。

ネッドの少年時代

1864年、ケリー家は アベネル (Avenel) に引っ越し、ネッドはこの地でブッシュに親しみ、学校に通って基本的な事を学びました。

しかし、一家は元囚人のアイルランド移民という事で警察に目をつけられ、何かと差別されていたようです。

ある日、ネッドは Hughes Creek で子供が溺れているのを助けた勇敢さを讃えられ、子供の親から緑の帯 (Sash) が贈られています。この時の帯は、後の1880年に警察と最後の対決を行った時にも鎧の下に身に着けていました。

1865年、父親ジョンは所有していた肉が自分の物だと証明できなかったので£25の罰金を要求されましたが、払えなかったので6カ月の有罪になり、厳しい肉体労働を強いられます。

刑期を終え家に戻ってきたジョンはお酒に溺れるようになり、それは確実に彼の健康を蝕んで体がむくみ始め、1866年12月27日に妻と生後18カ月から13歳の7人の子供たちを残して彼はこの世を去りました。ネッド12歳の時です。

残された母エレンは子育てに苦労し、しばしば暴力的な態度が目立つようになりました。それで何度か法廷にも出頭した事もあります。

ジョンとエレンの間に出来た子供

長女 Mary Jane (未熟児で6カ月の命だった)
次女 Annie Kelly Gunn (1853 – 1872)
長男 Ned Kelly (1854 – 1880)
三女 Margaret Kelly Skillion (1857 – 1896)
次男 James Kelly (1858 – 1946)
三男 Dan Kelly (1861-1880)
四女 Kate Kelly (1863 – 1898)
五女 Grace Kelly Griffiths (1865 – 1940)

1869年、家族はエレンの父親が牛飼い業を営んでいるビクトリア州北部の町イレブンマイルクリーク (Eleven Mile Creek) に未開で荒れた88エーカーの土地を借り、引っ越しました。

この時に一家はメルボルンの刑務所を脱走したブッシュレンジャーハリーパワー (Harry Power 1820-1891) と知り合いになり、家族ぐるみでの付き合いが始まっています。

ハリー・パワー

そして、その頃エレンはビル・フロスト (Bill Frost) という男性と恋仲になり、1870年3月には彼女の9番目の赤ちゃんが生まれていますが、彼女の恋人は結婚の約束を守る事なくいなくなっています。

青年期

後年、ケリー家の人々はもともと素行はあまり良くなかったという人と、彼らは警察から不当にターゲットにされていたという見方をする人がいます。あるいは両方だったのかもしれません。

とにかく多くのケリー家と親戚関係の人々が何度も起訴されていますが無罪になる場合も多く、ネッドも何度か起訴されていたものの、ほとんどは証拠不十分で有罪には至っていません。

ついにネッドに有罪判決が下ったのは、1870年10月。知人とのトラブルで傷害罪として6カ月の懲役が言い渡されました。

1871年3月27日、5週間早くビーチワースの刑務所から釈放されたのですが、それからすぐに盗まれた馬と知りながら知り合いから受け取ったという罪で、今度は3年の懲役を課せられてしまいました。

ネッド・ケリー (24 January 1874)

そして、1874年に刑期を終えてグレタ (Greta) の実家に戻ったネッドは、母親エレンに新しい恋人が出来た事を知ります。

新しい恋人はカリフォルニア出身で23歳のジョージ・キング (George King)で、馬泥棒を生業としていました。

1872年の終わり頃に出会った彼らは1874年2月19日に結婚し3人の子供を授かりますが、3人目の子供アリスが生まれる6ヵ月前の1878年4月にジョージの行方は分からなくなっています。

事件の夜

ケリーの家族は、警察に目を付けられた犠牲者のように語られる事も多いですが、実際少年たちは馬や牛泥棒をしていたようで、釈放されて戻って来たネッドは2年間木材関係の仕事をしていましたが、1876年にキング・ジョージの馬を盗む仕事に加わっています。

1877年9月18日には、ネッドがベナラ (Benalla) で酔って歩道を乗り越えたからと、4人の警官が来て逮捕しようとしましたが、手錠をかけられまいと暴れて揉み合いになった事もあります。この時の裁判所からのお咎めは、警察の制服のダメージを含めた £31 の罰金のみでした。

次男ジェームズは1873年に牛を盗んだ罪で5年の有罪になり、釈放された1877年にはワガワガ (Wagga Wagga) で馬を盗んだ罪で今度は10年の有罪。

三男のダンは1877年に財産損害の罪で3カ月の有罪になった後、1878年に釈放され、すぐにまた馬を盗んだ罪で逮捕状が出されました。

そして、この逮捕状と警官フリッツパトリック (Fitzpatrick) を巡って4月15日に事件は起こります。

フリッツパトリックはダンを逮捕するという名目でケリー家に上がり込み無礼な行為を始めたので、そこにいた家族が抵抗。その時にフリッツパトリックは左手首にケガをしたのですが、これが悪夢の始まりでした。

この時、フリッツパトリックは逮捕状も持っておらず、なぜケリーの家には必ず2人で訪問するようにと言われていたにも関わらずひとりで来たのか?それには諸説ありますが、一説に彼は四女のケイトを気に入っていたからという話もあります。

かくして、フリッツパトリックは警察署でネッドに撃たれてケガをしたと報告したので、ネッドにも逮捕状が出ました。

しかし、ネッドはその夜そこにはいなかったと言われています。いたのはエレンとダンとケイト、そしてエレンの義理の息子ビル・スキリオン (Bill Skillion) と隣人のウィリアム・ウィリアムソン (William “Bricky” Williamson) のみだったと。

身の危険を感じたネッドは警察から逃げる為、ダンと一緒にマンスフィールド (Mansfield) 近くの山 (Wombat Ranges) に身を隠しました。

逃亡生活

メルボルンの State Library Victoria 内ネッド・ケリーミュージアムにて

アウトローとなったネッドたちは、いつ撃たれてもおかしくない立場です。彼らは深い森にある小川のほとりに小屋を建て、6カ月間身を隠して過ごしました。

その時、彼らの古くからの友人であるビーチワース出身で鉱山採掘者の息子ジョー・バーン (Joe Byrne) とワンガラッタ出身で騎手のスティーブ・ハート (Steve Hart) も一緒に加わっています。

その間、事件の当日に現場にいたネッドの母エレンとビル、ウィリアムは殺人未遂犯の手助けをしたとして逮捕されました。

ネッドは無実を主張し、自分の身柄と引き換えに母親を解放して欲しいという手紙を警察に送りましたが却下され、それどころか事態はますます悪化します。

10月に行われたビーチワースの裁判で、エレンに3年、2人の男性には6年の有罪判決が下り、ネッドとダンには賞金首として £100の報酬がかけられました。

この時エレンは生まれたばかりの赤ん坊と一緒に拘置され、それに対して多くの人から警察に対して非難の声が上がっていました。

再び起こった悲劇

警察はネッドらが Stringybark Creek で目撃されたという情報を入手し、10月25日にマンスフィールドから警官が派遣されました。

ケネディ軍曹 (Sergeant Kennedy) と以前ネッドと揉み合いになった事もあるロニガン (Lonigan)、そしてスキャンロン (Scanlon)マッキンタイア (McIntyre) の4人で、目撃現場にテントを張って一晩を過ごしています。

翌日の朝早く、ケネディ軍曹とスキャンロンは2人の警官を残して見回りに行き、残りの2人がキャンプ地の見張りを任されました。

午後になってマッキンタイアは夕食にカンガルーでも仕留めて来ようと出掛け、オウムを数匹仕留めたのですが、この銃声がブッシュレンジャーたちに居場所を知らせてしまったのかもしれません。実はテントを張った場所は、ネッドたちの小屋から1マイルも離れていなかったのです。

午後5時頃、マッキンタイアとロニガンがお茶を淹れていると、突然茂みからネッドたちが現れ銃で威嚇。

ロニガンが銃の引き金を引こうとしたので、ネッドが先に発砲し、ロニガンは地面に倒れました。

午後5時半頃にはケネディ軍曹とスキャンロンが戻って来て、結局は銃撃戦になり、生き残ってマンスフィールドに戻ったのは戦わなかったマッキンタイアだけです。

この銃撃戦の内容については長年論争がありますが、ネッドはこの時の事を最後まで「撃つつもりはなく正当防衛だった」と主張しています。

銀行強盗

この事件により、ビクトリア政府はネッドたちの首ひとりにつき£500に引き上げ、警察は令状なしにネッドらに手を貸した疑いのある人間を逮捕出来る権限が与えられました。

しかし、この法律で不当に逮捕される人たちが続出し、民衆からは非難の声が上がります。

そんな中、ネッドは自分の大切な人を釈放する為には大金がいると感じていました。

1878年12月9日、ネッドらはユーロア (Euroa) に近い Faithfull’s Creek の羊牧場に侵入し、「自分たちはブッシュレンジャーだが傷つけるつもりはない。」と伝えた上で食べ物と馬を要求。22人の従業員たちを人質として倉庫に閉じ込めました。

翌日、牧場の見張りをジョーに任せ、身なりを整えた3人のブッシュレンジャーたちはユーロアの銀行に向かい、午後4時、約£2000の紙幣と金を手にする事に成功。

しかし彼らは銀行強盗らしからず、礼儀正しく女性にも紳士的で、銀行員が自ら一緒にウイスキーを飲もうと誘ったり、牧場に戻って人質を解放した後も、その人たちとお茶をしたという話も残っています。

2度目の銀行襲撃は2カ月後の2月8日、今度はニューサウスウェルズの町ジェリルデリー (Jerilderie) でした。

夜遅くに警察署に忍び込み、2人の警官を独房に閉じ込める事に成功しました。しかしその日は土曜日だったので、銀行が開く月曜日まで制服を着て警官の振りをして過ごしています。

誰にも不信に思われないまま月曜日を迎え、ケリーたちは予定通り銀行に押し入りました。

£2141 の紙幣とコインを手にし、住宅ローンの証明書を見付けたので3〜4冊ほど焼きました。(もっともこの証明書はシドニーオフィスに控えがあったので、焼いた意味はなかったのですが。)

その後、人質を取って銀行のすぐ近くにあったロイヤルホテルに60人もの人々を集め、ネッドは彼が銀行を襲う理由や自分は殺人を犯したのではなく正当防衛だった事、理不尽な扱いで母親が捕まっている事などを演説しました。

そして、その場にいた人に無実を綴った8000文字以上の手紙をメルボルンの議員ドナルド・キャメロン (Donald Cameron 1877-1880) に渡すように頼んでいます。

こうしてギャングたちは数カ所のホテルを回った後、町の通信システムを全て断ち午後7時頃に立ち去りました。

 

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新たな計画

この銀行の事件で、ニューサウスウェルズ政府はネッドたちの首に £4,000 をかけ、ビクトリア政府と合わせて異例の £8,000 の報酬が支払われると発表。

しかし、1879年3月初めから1880年6月頃までは何事も起こらず、あまりにも静かなので、もしかしたら彼らはもう遠くに逃走したのではないかと囁かれました。

実際ネッドの親戚 Tom Lloyd はネッドにクイーンズランドへの逃亡を勧めたそうですが、ネッドはビクトリアから離れるつもりはなかったようです。

ネッドたちには多くの味方がいて、民衆は警察や権力者に反感を持ち協力したくなかったので、長い間捕まらずに逃げていられたと言われています。

警官はジョーの母親が住む家や彼らの親戚・友人の家を監視し、ジョーの親友だったアーロン・シェリット (Aaron Sherritt) に情報提供者として協力を仰ぐために買収しました。アーロンの家は警官の溜まり場のようになり、警察が常に何人も寝泊まりをする状態になりました。

ネッドたちはそんなアーロンの裏切りに気付きます。

1880年6月26日土曜日の夕刻、アーロンを家の外におびき出し、2発の銃声が響いて、アーロンは仰向けに倒れました。

列車の脱線計画

これで火蓋は落とされました。

ビーチワースのアーロンの家で起こった事件を受けて、アーロンの家にいた警官たちがメルボルンに連絡し、警察専用の列車が派遣されると予測したネッドは、その途中で通過するグレンロワン (Glenrowan) の線路のレールを外して列車を脱線させようと計画します。

そして、生き残った警官を捕虜にした後、ベナラの銀行を襲撃し、警察署を爆破し独房に入った人たちを解放しよう、と。

この時ネッドは多くの人たちを巻き込んで、ビクトリアを共和国にする為に革命を起こすしかないと思っていたという説もあります。

現在のグレンロワン

ともかく彼らは、グレンロワンで地元の人々から抵抗される事もなく Glenrowan Inn (宿泊できるパブ) を占拠し、激しい戦いになる事を予想して、ネッド・ケリーの象徴とも言えるあの有名な鎧も準備しています。

State Library Victoria の 44kg ある本物の鎧

日曜日の午後までに62人の人質をホテルに集めて列車を待ちました。が、いくら待っても列車は一向に来る気配がありません。

ネッドは人質たちにお酒を振る舞い、人質たちは音楽をかけて踊って盛り上がりました。

ダンとジョーはかなり酔い、ネッドは人質たちとカードゲームをして過ごしたようです。この現場にいた人によると、ネッドたちは人質を悪く扱った事は一度もなかったと後に証言しています。

夜は更け、ネッドは学校の教師だったトーマス・カーナウ (Thomas Curnow) を信用して、彼と彼の妻や子供たちを家に帰しました。しかし、これが致命的な失敗となります。

ネッドは、いつまで経っても警察の列車が来ないので不安になっていました。

遅れた原因は、アーロンの家にいた警官たちが自分たちも撃たれるのではないかと恐れて日が昇るまでベッドの下に隠れていたので、ニュースがメルボルンに届くのが遅れたからです。運の悪い事にその日は日曜日で午後に電信局が閉まってしまい、列車が出発したのは夜になってからでした。

グレンロワンのホテルから出る事に成功したトーマスは、警察の乗った列車を止めてネッドたちの計画を警察に伝え、列車は脱線から免れました。ネッドたちの計画は失敗したのです。

 

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計画の失敗

その頃、ネッドは夜遅くなったので人々を家に返そうと考えていたのですが、ホテルの女主人 Ann Jones がもっとネッドの話を聴くように人々に言ったので、ほとんどの人たちがホテルに残っていました。

突然、ジョーがネッドたちの会話を遮って、列車が到着した事を報告。作戦が失敗したと悟った彼らは、急いでこれから始まる戦いに備えて鎧を身に付けました。

その合間に Bracken という男性が そこを抜け出し、駅にいた警官たちに状況を説明しに行っています。

最高責任者のハレ (Superintendent Hare) が、6人の警官と5人の原住民トラッカーを連れてホテルに到着すると、既に武装したネッドらが待ち構えていました。

そして、ついに銃撃戦が始まったのです。その様子を見ていたジャーナリストによると、警察とギャングの銃撃戦は1時間以上続いたようです。

警察、追跡者、一般市民のボランティアがホテルを囲んでおり、明け方近くに30人程の警官が次々と到着。発砲は断続的に続いていました。

ネッドは一度外に出て戦い、午前5時頃戻って来ています。

ジョーはお酒を飲もうとバーカウンターに立った時、ちょうど銃弾が着ていた鎧の隙間から体に当たり、致命傷を負いました。

 

夜明け前、ホテルから再び飛び出して行ったネッドは28発の弾を受け、100ヤード離れた地点で倒れていました。

かつて世間を騒がせたブッシュレンジャーは、こうして警察に捕らえたのです。

長い夜が明け、朝には女性と子供から優先的にホテルから解放され、ほとんどの人たちが助かりましたが、数人は流れ弾に当たって亡くなっています。

ダンとスティーブはホテルの中で生き残っていましたが、午後3時に警察がホテルに火を放った後、焼け跡から彼ら3人と思われる亡骸が確認されました。

現在は博物館になっている Old Melbourne Gaol

1880年11月11日、何千人にも及ぶ署名も虚しく、ネッドはメルボルン刑務所 (Old Melbourne Gaol) で絞首刑となりました。

「それが人生だ (Such is life)」

それがネッド・ケリーの最後の言葉です。

享年25歳。

おわりに

ネッドの母親エレンは、ネッドと最後の面会を許された後、1881年2月に釈放され、91歳で亡くなっています。

オーストラリアでは今でもネッド・ケリーゆかりの物や土地が残されているので、19世紀に思いを馳せながら巡ってみるのも良いかもしれません。