アイルランドのビネガーヒルの戦いがオーストラリアでキャッスルヒルの反乱になるまで

オーストラリアで起こった最初のヨーロッパ人同士の戦いは、1804年3月5日にイギリス政府とアイルランド入植者が対立したキャッスルヒルの反乱 (Castle Hill Rebellion)です。

オーストラリアのビネガーヒルの戦いとも呼ばれることがあり、これは1798年にアイルランドで起きたビネガーヒルの戦い (もしくはビネガーヒルの反乱) に由来しています。

もとはと言えば、このアイルランドの戦いが原因で逮捕され、流刑地となったオーストラリアに移送られた人もたくさんいました。

そして、オーストラリアに連れて来られても、命懸けで故郷に帰ろうとしたアイルランド人がいたのです。

ということで、この記事ではビネガーヒルの戦いについて深堀りしていきます。

アイルランドのビネガーヒルの戦いはなぜ起こったか

Fields Hill Ireland Countryside Wexford Flock

Fields Hill Ireland Countryside Wexford Flock (Pixabay)

1804年3月5日に起こったオーストラリアのビネガーヒルの戦いを知るためには、まずは1798年5月から始まったアイルランドの反乱 (Irish Rebellion) について説明しなければいけません。

これはアイルランドの政治結社ユナイテッド・アイリッシュメン (United Irishmen) を中心に、イギリスの植民地支配に抵抗して起こった反乱です。

しかし、この戦いは最終的にアイルランドの敗北で終わりました。

反乱軍の中心組織ユナイテッド・アイリッシュメン

この反乱を扇動したユナイテッド・アイリッシュメンという組織は、アイルランドのプロテスタントとカトリックの混合グループで構成されています。

1791年に設立された当初は平和的な団体でしたが、1789年にフランスで勃発したフランス革命やアメリカが独立する権利を主張した政治活動家トーマス・ペイン (Thomas Paine) の著書に触発され、次第にアイルランドをイギリスの植民地支配から独立させ共和国にすることを目指すようになりました。

 

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ユナイテッド・アイリッシュメンはフランス共和国軍の協力も得て、1796年にはフランスの艦隊が加勢のためにアイルランドに向かって出航。しかし悪天候のため上陸出来ず、反乱の計画は中止になっています。

イギリス政府もアイルランド側の怪しい動きには目を光らせていて、反乱を抑えるための法律を制定したり過激派を逮捕したりと弾圧。

しかし1789年5月、ついに反乱が始まりました。

血生臭い戦い

ユナイテッド・アイリッシュメンらは、アイルランド議事堂があるダブリンを占領する計画を立てていました。

しかし、イギリス政府が送り込んでいたスパイにその計画を密告され、まだフランスの支援軍が到着しないうちに、準備も整わないまま戦いが始まりました。

ダブリン周辺の州で戦いがくり広げられ、逮捕者を出しながらもユナイテッド・アイルランドメンは5月30日に重要な軍事施設があるウェックスフォード州を占領。一時的には勝利したかのようにも見えました。

でも、フランス軍の支援なしの状態では状況が厳しくなり、結局6月21日にウェクスフォード州のビネガーヒルで敗北。これがビネガーヒルの戦い (Battle of Vinegar Hill) です。

そして、この戦いがきっかけとなり、1801年にイギリスは正式にアイルランドを合併しました。

UKアイルランドが一部独立を果たすのは1921年です

結果的に何千人ものアイルランド人が殺され、処刑され、多くの人たちが囚人として流刑地だったオーストラリアに移送されました。

 

(参考にしたウェブサイト: The Battle of Vinegar Hill (1798) – Age of Revolution)

オーストラリアで起こったビネガーヒルの戦い

The First Fleet
The First Fleet entering Port Jackson, January 26, 1788, drawn 1888

オーストラリアが流刑地として選ばれた18世紀後半、イギリス政府は主に窃盗犯や偽造者などで有罪判決を受けた囚人を送る予定でした。

しかし、1789年のフランス革命やアメリカ独立戦争などが起こっていたこともあり、イギリス政府は自国を脅かす過激な反体制派を恐れて、政治犯の移送も開始しています。

 

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こうして、1798年にビネガーヒルの戦いに参加した大勢のアイルランド人は、男女問わずオーストラリアに連れて来られたのです。

そしてその受刑者たちの多くは、その後オーストラリアでも第二のビネガーヒルの戦いに参加することになります。

これはオーストラリアで起きた最初のヨーロッパ人同士の反乱でした。

国に帰ろうとしたアイルランドの受刑者たち

アイルランドでビネガーヒルの戦いに参戦した人たちは、キャッスルヒル (パラマタとブラックタウンの間にある地域) の兵舎に集められ、植民地の食料を確保するために政府の農場で働かされました。

そんな合間にも彼らはたびたび集会を開き、故郷のアイルランドを共和国にするために帰国して戦いに参戦するにはどうすれば良いのかを話し合う日々です。

その計画は未然に阻止されることが続いていたのですが1804年3月5日 (月)、オーストラリアのビネガーヒルの戦いと言われるキャッスルヒル反乱 (Castle Hill Rebellion) が起きました。

死か自由か

反乱軍の指導者はアイルランドでビネガーヒルの戦いにも参加したアイルランド人、フィリップ・カニンガム (Philip Cunningham) と、ウィリアム・ジョンストン (William Johnston) です。

彼らは小さな農場から武器を盗んだ後、他の農場で働いている受刑者にも逃亡に参加するよう勧め、ホークスベリーから開拓地に向かう予定の約1000人以上の受刑者と合流する計画を立てていました。

それからパラマタを経てポートジャクソン (現在のロックス) まで出たら、そこでアイルランドに帰るための船を調達しようとしていたのです。

「Death or Liberty (死か自由か)」という合言葉を掲げた約300人の反乱軍たちは、辺りが暗くなると、キャッスルヒルの農場に火をつけ物資や弾薬を奪っていきます。小グループに分かれて、近くの農家にも襲撃に行きました。

 

しかし、反乱軍が待ち合わせていた港に集まることはなかったのです。

実は、この計画は事前にニューサウスウェールズ植民地総督フィリップ・ギドリー・キング (Philip Gidley King) の耳に入っていたため、すでに厳戒態勢がしかれていました。

後に悪名高いラム軍団と呼ばれることになるニューサウスウェールズの兵士を率いるジョージ・ジョンストン少佐 (George Johnston) の前に、反乱軍のリーダーであるカニンガムが停戦の旗を持って交渉に来ましたが、兵士はそれを無視して発砲。

反乱軍約15人が銃で撃たれ、逃げた他の反乱軍たちも追跡され殺されました。

この反乱で少なくとも39人の受刑者が亡くなったと言われています。

反乱のその後

反乱軍のリーダーだったカニンガムは、ウィンザーのグリーンヒルズで裁判なしで絞首刑になりました。彼のお墓は現在もウィンザーに残っています。

残りの8人もパラマタで裁判にかけられ死刑宣告。200~500回の鞭打ちの刑に処された人、い
別の23人の反逆者はニューカッスルのコールリバー (Coal River) の炭鉱に送られました。

結局、オーストラリアのビネガーヒルの戦いも失敗に終わったのです。

しかし、この自由や正義を掲げた意思は、その約50年後の1854年にビクトリア植民地にある鉱山の町バララットで起こった、かの有名なユーリカ砦の反乱に引き継がれました。

そしてユーリカ砦の反乱で戦った彼らの秘密の合言葉は「ビネガーヒル」だったと言います。

 

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20世紀に建てられた記念碑

それから180年経った1984年、オーストラリアのビネガーヒルの反乱があった場所の近くにある Castlebrook Memorial Park 内にある墓園に記念碑が建てられました。

記念碑のデザインは、1984年にブラックタウンカウンシルによって実地された全国デザインコンペティションで選ばれたもので、ニューサウスウェールズ州のアイルランド人コミュニティや鉱山労働者トラスト、ブラックタウンカウンシル、アイルランド政府など様々な人の思いが入っているものです。

戦って亡くなった彼らはオーストラリアの先駆者であり、当時生き残った人たちの子孫は、遠い昔のような暴力的なやり方ではなくお互いを尊重したやり方で、現在もオーストラリアに根付いています。

Castlebrook Memorial Park
Windsor Road, Castlebrook Memorial Park, Rouse Hill, 2153
https://www.castlebrook.com.au/

おわりに

自国を守るという思いが強かった彼らは、遠く離れた故郷に命懸けで帰りたかったんですね。

オーストラリア大陸に西洋人が来たことに関しては色々と否定的な意見もありますが、現在のように国外に簡単に連絡が取れなかった時代、ゼロから全てを開拓するのはどんなに大変だったのだろうと思います。

ブッシュレンジャーのネッド ・ケリーもアイルランドの血を引いていましたが、良いか悪いかは置いておいて、当時彼らが民衆から人気があったのも、なんとなく分かるような気がしました。

こういう話は日本語もほとんどありませんし、知らない人も多いのではないでしょうか。

今回偶然でしたが知れて良かったです。

 

(参考にしたウェブサイト: Castle Hill Rebellion | National Museum of Australia / Battle of Vinegar Hill – Monument Australia / Battle of Vinegar Hill – Blacktown City Council)