西海岸に初上陸したハートッグとエーンドラハトランド呼ばれたオーストラリア

オーストラリア大陸は時代によって様々な名前で呼ばれていましたが、1616年から1644年までの28年間はエーンドラハトランド (Eendrachtsland / Eendraghtsland、オランダ語は het Landt van d’Eendracht / Land van de Eendracht) という名前でした。

これはオランダ東インド会社のエーンドラハト号を指揮していたダーク・ハートッグが、1616年にオーストラリア大陸西海岸を発見したことに由来しています。

また、ダークハートッグ島も彼に由来する島で、彼は西オーストラリア州に初上陸したヨーロッパ人であり、オーストラリアに最も古いヨーロッパ人の痕跡を残した人物です。

それはまだ、ヨーロッパではオーストラリアがある南半球が「未知の海域」と言われて謎に包まれていた頃のことでした。

 

オランダ人によって何度も目撃されていたオーストラリア大陸

Australia

オーストラリア大陸を初めて発見して上陸した最初のヨーロッパ人の記録は、1606年です。

オランダ東インド会社のウィレム・ジャンシューン (Willem Janszoon) が、オーストラリア大陸の北東のケープヨークを発見しました。

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今でこそオーストラリアはイギリスの植民地だったことが知られていますが、最初にオーストラリア大陸を発見したヨーロッパ人はジェームス・クック (キャプテン・クック) ではありません。 ジェームス・クックがオーストラリア大陸に上陸したのは1[…]

その10年後、オーストラリア西海岸を発見して上陸したのが、同じくオランダ東インド会社のダーク・ハートッグ (Dirk Hartog) です。

ただ、この頃はまだオーストラリア大陸の全貌が分かってなかったので、これらの土地は別々に考えられていました。

オランダ東インド会社の船がよくオーストラリアを発見していたのは、拠点がインドネシアのバタビア (現在のジャカルタ) にあり、航路がアフリカ大陸を経由する東回りだったことも関係します。

 

今回はハートッグがどんな風に西海岸を見つけたのか、そしてそれにまつわるストーリーを追っていきましょう。

西海岸を発見したハートッグ

ocean

船乗りの家庭に生まれたダーク・ハートッグ (Dirk Hartog / Dierick Hartochszch 1580–1621) は、30歳の頃に船の指揮官となり、数年間バルト海や地中海で貿易事業をしていた人物でした。

そして1616年、彼はオランダ東インド会社の「調和」や「団結」を意味するエーンドラハトランド号 (Eendracht) という名前の船の指揮官として雇用されました。

こうして1月23日、ハードッグは数隻の船と一緒にオランダのテクセルから東インド会社の本拠地があるインドネシアのバタビア (現在のジャカルタ) に向けて出港したのです。

しかし嵐が来て、エーンドラハト号は他の船とはぐれてしまいました。

単独で南アフリカの喜望峰 (現在のケープタウン) へ到着したエーンドラハト号は、そこからインド洋を東へ横切り、北へ舵を取ってインドネシアに向かう予定だったのですが、南緯26度辺りで偶然にも島と大陸を発見します。10月25日のことでした。

そして彼が上陸した島が、現在のシャークベイ沖のユネスコ世界遺産になっている西オーストラリア州最大であり最西端に位置するダークハートッグ島です。


Map of Shark Bay area showing Dirk Hartog Island and Cape Inscription (CC-BY-SA 2.0)

 

彼は2〜3日かけて島周辺を調査し、島の北端にある碑文岬 (Cape Inscription) の岩の裂け目に木の柱を立て、ピュータ製の平らな皿をそれに打ちつけました。そして、船や乗組員、上級士官などの名前を刻んだのです。

以下が西オーストラリア博物館のホームページにあった、オランダ語から英語に訳されたプレートに書かれた内容です。

1616 THE 25 OCTOBER IS HERE ARRIVED THE SHIP EENDRAGHT OF AMSTERDAM THE UPPERMERCHANT GILLIS MIEBAIS OF LIEGE SKIPPER DIRCK HATICHS OF AMSTERDAM. THE 27 DITTO (we) SET SAIL FOR BANTAM THE UNDERMERCHANT JAN STINS, THE FIRST MATE PIETER DOOKES VAN BIL. ANNO 1616

こうしてハートッグはオーストラリア大陸に上陸した2番目の、そして西オーストラリア州に初上陸したヨーロッパ人となり、このプレートはオーストラリアに残された最も古いヨーロッパ人の遺物となったのです。

 

この頃のヨーロッパ人は上陸したことを示す印をよく残していて、オランダ人はプレートやボートなどを、フランス人はボトルやコインを土に埋め、イギリスは木か岩に印を付けていました。

 

その後、特に何も見つからなかったので、西オーストラリアの海岸線に沿って北へ向かい、南緯22度まで海図を作成しています。

この出来事はオランダ、イギリス、フランスなどの船がシャークベイに寄るようになるきっかけとなり、西洋の地図には船の名前をとってエーンドラハトランド (Eendrachtsland) と書かれるようになりました。

つまり、ガスコイン地域、もしくはオーストラリア大陸のことを指す言葉だったのです。

その後のハートッグプレート

この時残したプレートは、81年後の1697年2月2日にオランダ人ウィレム・デ・フラミング (もしくはウィレム・デ・ヴラミン Willem de Vlamingh) によって発見され、オランダに持ち帰られました。

彼はクウォッカで有名なロットネスト島の名付け親であり、西オーストラリア州を調査した人物です。

実際にプレートを発見したのは彼の一等航海士であるミヒール・ブルーム (Michiel Bloem) だったようで、木の柱はほとんど腐ったような状態で立っていて、プレートはその近くの砂に埋もれかけていました。

フラミングは、このプレートが歴史的に価値があるものだと認識したため、バタビアのオランダ当局へ届けることを選択。

彼は新しいプレートにハートッグの残したプレートと同じ文章と彼自身の航海記録を刻み、同じ場所に古いものと交換する形で立て直しました。

そして、ハートッグのプレートはバタビアからオランダにあるオランダ東インド会社本部に送られ、現在はオランダのアムステルダム国立美術館 (Rijksmuseum) に所蔵されています。

フラミングのプレートの行方

フラミングが残したプレートは、1801年にボーダン遠征中のフランス人に発見されました。

ボーダン遠征 (Baudin expedition) とは、1800年から1803年にかけて、当時ニューホランド (New Holland) と呼ばれていたオーストラリアの海岸を地図にするためのフランス人遠征隊。ボーダン船長のジオグラフ号と、ジャック・ハーメルン (アムラン) 船長のナチュラリスト号の2隻の船で遠征し、Jean-Baptiste Leschenault de la Tour、François Péron、Charles-Alexandre Lesueur、Pierre Faure など9人の動物学者と植物学者、地理学者、海軍士官で太平洋の探検航海を行ったルイ・ド・フレシネ (Louis de Freycinet) もいました。

ナチュラリスト号がシャークベイに着き、数人の船員たちはキャンプ地を見つけるためにダークハートッグ島に上陸しました。

その時にフラミングのプレートを見つけたのです。

ルイ・ド・フレシネを含む若い隊員たちは、それをフランスに持って帰るべきだと思いハミルトン船長に届けたのですが、元の場所に戻すように命じられます。

そして、島の訪問を記念してハミルトン船長自身の刻板を立てました。こちらはその後、目撃情報はありませんん。

そして1818年、ルイ・ド・フレシネは再びシャークベイに戻り、フランスへ届けようとプレートを回収。

帰国後、フランスの国立学術団体であるアカデミーフランセーズ (Académie Française) に寄託しましたが、その後100年以上行方不明になっていました。

 

1940年、小さな部屋のいちばん下の棚から古い銅版画に混じった状態で発見されたプレートは、オーストラリアの要求もあり1947年5月にオーストラリアに贈呈され、1950年に西オーストラリア州に返還。

現在、西オーストラリア州の州都パース郊外フリーマントルにある海事博物館の難破船ギャラリーに展示されています。

帰国したハートッグ

さて、17世紀のハートッグの話に戻ります。

1616年12月10日、インドネシアのマカッサルに錨を下ろし、そこにあるオランダの工場に食料と水を求めて訪れたのですが、工場は誰もいませんでした。

14日にオランダ東インド会社のジャン・スタイン (Jan Steijns) が上陸したので彼に事情を聞き、工場は一年以上前に放棄されたこと、マカッサルの王が2人の息子と高官の死因になったオランダ人に対して怒っていることなどを知ります。

スタインはイギリスの船に助けてもらい逃げのびましたが、彼を探しに来た16人のオランダ人男性が虐殺されました。

そんな出来事もありつつ、エーンドラハト号は再び出港し、12月30日にバンダ (Banda) に到着。そしてその1年後の1617年11月にバンダム (Bantam) で大量のクローブが積み込まれました。

故郷に帰ったのは1618年10月16日です。

 

その後のハートッグは、東インド会社から離れて、またバルト海で個人貿易事業を再開して暮らしています。

おわりに

エーンドラハトと呼ばれるようになったオーストラリアとダークハートッグ島の由来、そしてハートッグが残したプレートの行方などについて見ていきました。

航海は命がけで、とても時間がかかるものだったこの時代、現在の私たちとは全く違う感覚で生きていたんでしょうね。

そして、オーストラリア大陸がイギリスの植民地として白羽の矢が立つのは、そして西オーストラリアに開拓者がやって来るのは、まだまだ当分先のことです。