パラマッタの歴史的建造物『ハンブルドンコテージ (Hambledon Cottage)』は、1824年にジョン・マッカーサーによって建てられた植民地時代ジョージアン様式のコテージです。
ジョン・マッカーサーの家と言えば、この近くにあるエリザベスファームが有名ですが、ハンブルドンコテージはエリザベスファームの追加宿泊施設として建設された建物なので、比べるともう少し素朴でこぢんまりとしているかもしれません。
現在はオーストラリアで最も古いローカル歴史協会 Parramatta and District Historical Society (1913〜) の管理するハウス博物館になっていて、毎週金〜日にはガイドツアー ($10) が行われています。
実際に使用されていた19世紀当時の家具や道具などの説明を聞きながら、オーストラリア植民地時代初期のライフスタイルに触れてみてはいかがでしょうか。きっとたくさんの驚きや発見があるでしょう。
この記事では、そんな当時の様子が生き生きと感じられるハンブルドンコテージの魅力をお伝えします!
入植開始当時の暮らし
あなたは想像出来るでしょうか?
今日では6万5000年以上前から存在していたと考えられている先住民の暮らすオーストラリア大陸ですが、西洋人の入植が始まったのは1788年からです。
1770年にキャプテンクックが大陸を調査してイギリスの植民地宣言をしたとはいえ、南半球にあるオーストラリアは入植初期のヨーロッパ人にとって、まだ何も分かっていない未知の土地でした。
今まで見たこともなかった動物や植物。建物も何もなく、故郷イギリスとは全てがまるで勝手が違います。
ハンブルドンコテージは、そんな時代を生き抜いた人々の生活様式や工夫があちこちで見られ、現代を生きる私たちにはかえって新鮮に映るのではないでしょうか。
ハンブルドンコテージの背景
ハンブルドンコテージは、1824年にジョン・マッカーサー (John Macarthur 1767-1834) が娘の家庭教師のため、そして彼の家族や友人などが訪れた時のための宿泊場所として建設した、エリザベスファームの第2の家でした。
ヘンリー・キッチン (Henry Kitchen 1798-1822) のデザインではないかと言われているジョージアン様式のコテージは、19世紀のシドニー周辺の建物の特徴と言えるサンドストーンのレンガ造りで、建物全体に施されている木工部分はオーストラリア産のレッドシダーが使われています。
室内にはオリジナルのユーカリの木 (アイアンバーク) の床が残っている部屋もあり、ほぼ全ての家具は実際にこのコテージで使用されていたもの (1820〜1880年代) です。
「ハンブルドン (Hambledon)」というコテージの名前は、3人の娘たちの女性家庭教師で教師としてニューサウスウェールズに来た最初の女性ペネロープ・ルーカス (Penelope Lucas 1768-1805) が、彼女の故郷であるイギリスのハンプシャー (Hampshire) にちなんで名付けました。
ダイニングルームに飾られたエドワード・マッカーサーの肖像画
コテージには、マッカーサー家の長男で後にビクトリア植民地総督になったエドワード・マッカーサー (Edward Macarthur 1789-1872) や、英国国教会の執事長トーマス・ホッブス・スコット (Thomas Hobbes Scott 1783–1860)、パラマッタ病院の外科医でマッカーサ家のかかりつけ医だったマシュー・アンダーソン (Dr Matthew Anderson) など、複数の著名人も利用しています。
オーストラリアにおける羊毛産業の先駆者ジョン・マッカーサー
家主だったジョン・マッカーサーについて簡単に説明すると、彼はイギリス陸軍の将校で、政治や建築にも携わった人物ですが、オーストラリアにおける羊毛産業の先駆者としても知られています。
妻のエリザベスと一緒にオーストラリア (当時はニューサウスウェルズ植民地と呼ばれていた) にわたったジョンは、羊を育てるのに適したこの地で質の良い羊毛を生産し、イギリスで売ることを考えました。
しかし、ジョンは問題を起こして9年間オーストラリアに戻って来れなかったため、妻のエリザベスが留守を預かり、その間にファームのことを学んだ彼女は、何千頭もの羊を繁殖させていきます。
だから、このコテージにエリザベスは欠かせない存在です。
ファーホルムの門とコテージの現在
そして、ハンブルドンコテージの入り口には「ファーホルム (Firholme)」と書かれた門があります。
これは1883年から1906年までこのコテージを所有していたフランシス・ウィッカム (Francis Wickham) が住んでいたという証です。
マッカーサー家は1881年までの約60年間コテージを所有していましたが、その後に競売にかけられ、フランシス・ウィッカムが購入しました。
その際に名前も「ハンブルドン」から「ファーホルム」に改名されたので、門はその名残です。
1947年に大手医薬品メーカー Wyeth の土地になりましたが、1954年にはパラマッタのカウンシルの管理下になり、再びハンブルドンの名前が使われるようになりました。
1964年からは Parramatta and District Historical Society の拠点となり、50年以上にわたって観光や教育施設として運営されて来たこのコテージは、2012年9月21日にニューサウスウェールズ州の遺産として登録されてます。
そんな歴史のあるコテージです。
ハンブルドンコテージのロケーション
『ハンブルドンコテージ・ミュージアム』は、パラマッタ駅やパラマッタフェリー発着所から徒歩15分ほどの場所にあります。
Corner of Hassall Street and Gregory Place, Parramatta NSW 2150
https://www.hambledoncottagemuseum.org.au/
金・土・日 11am-3pm
※ 中に入るのはガイド付きツアー (英語) のみで、$10です。(2024年現在)
フェリー発着所の川沿いには『Harris Park Heritage Walk』というウォーキングコースもあるので、そちらを通って来るのもおすすめです。
ローズヒルの『Elizabeth Farm』もハンブルドンコテージから徒歩10分ほどですし、ナショナル・トラストが運営する『Old Government House』や、ハリスパークの『Experiment Farm Cottage』も近くにあるので、あわせて行ってみても良いかもしれませんね。
※ 毎日オープンはしていないので、日時に注意してください。
ハンブルドンコテージの中に入る
私がガイドツアーに参加したのは、2024年8月の下旬です。
最初の印象は「意外と普通の建物に見えるけど、本当にそんなに古いの?」でした。
敷地内に入ると、パラマッタ川沿いにもたくさんあった『ハリスパーク・ヘリテージウォーク』の看板があり、ここもウォーキングコースの一部であることを知ります。
裏は色褪せてませんでした
看板にはハンブルドンコテージのことや、その周辺についてなどが書かれていました。
それによると、パラマッタ川とハンブルドンコテージを繋ぐ Purchase Street は、もともと1881年から1883年の間にマッカーサーの土地を分割するためだけに作られたものだったそうです。
コテージの周囲には彼が1817年にイギリスから帰国した際に持ち帰ったイングランドオークやオリーブの木が植えられていたとのことで、今でも生き残っているコルクオークの木 (ワインのコルクになる木) は、ツアー中に見せてもらいました。
現在、広い敷地には Bunya Pine や Port Jackson Fig なども植えられているそうです。
それでは中に入ってみます。
素敵な入り口。事務所は入って右側の部屋にあるので、そこでガイド付きツアーの$10を払い、いよいよツアー開始です!
ガイドツアーに参加する
ガイドさんは、録音されたピアノの音が鳴り響くドローイングルーム (女性がくつろぐ部屋) や、当時の君主ビクトリア女王の肖像画が掲げられたダイニングルーム、ベッドルーム、キッチンなどをひとつひとつ丁寧に説明してくれました。
食事の時には君主の肖像画が必須だったそう
この時代、イギリスに物資をオーダーしても届くのに船で9ヶ月はかかるため、ボタンやトランプなど何でも出来るだけ手作りしていたこと、夜はキャンドルの光を無駄にしないために白い壁や鏡の反射を利用していたことなど、興味深い話をたくさん聞けました。
特に面白いと思ったのは、当時の紅茶はとても高級品だったため、鍵付きの箱に保管していたという話!
鍵はジョン・マッカーサーの奥さんエリザベスが管理していたそうです。
こちらがジョン・マッカーサーの奥さんエリザベスの肖像画。
ガイドさんは言います。「彼女は強い女性だったに違いない。そしてオーストラリアが大好きだったのだ」と。
全部を書くと長くなり過ぎるので、詳しくはオーストラリアの歴史サイトで続きを書こうと思いますが、このガイドツアーは本当に良かったです!
おわりに
電気も水道も暖房もない、現在とは全く違う19世紀のオーストラリアの暮らしも、こうやって説明を聞くと当時のリアルな生活が想像出来るような気がして来ます。
もし機会があれば、ぜひ実際に訪れて体験してみてください。
記事中にも書いたように、パラマッタ周辺には他にもたくさんの歴史博物館がありますので、あわせて計画を立ててみても良いかもしれませんね!