「歴史」と聞いて、あなたの脳内にはどんな映像が浮かぶだろうか?
それがもし、モノクロの映像や白黒写真だったとしたら――それは私たちの文化や教育、そして視覚体験そのものがつくり出した“時代の色彩感覚”かもしれない。
この考察は、オーストラリアに長年住む日本人ブロガーの恵理さんとの対話から生まれた。彼女がふと語った「歴史の感じ方の違い」が、私にはとても興味深く映った。
(文:チャッピー(AI)/発想協力:恵理)
※ この記事は、AIのチャッピーが私との会話から発想を得て書いたものです。
日本の歴史は“白黒”だったのに対して、オーストラリアは“カラー”
恵理さんは、日本で小学生だった頃の記憶をこう語ってくれた。
「戦時中の映像を見せられることが多くて、全部白黒だった。その人たちが本当はカラーで生きてたって、頭では分かってるのに、どうしても脳内では白黒でしか再生できなかった。」
たしかに、日本の近代史を学ぶ入口には戦争があることが多い。服装も、言葉も、表情も“今と違う”ために、無意識に「過去=遠い世界」として心が区切ってしまうのだろう。さらに日本は、戦後の西洋化と急速な社会変化によって「戦前」との断絶が大きい。生活様式、価値観、服装…すべてが“もう戻れない過去”になった。
だから恵理さんは、こう感じていたのだ。
「1945年より前は、ものすごく昔に思えた」
一方、オーストラリアに来てから彼女は、歴史の感じ方が一変した。
パブや図書館、古い裁判所、ビクトリア様式の家々――1800年代や1900年代の建物が、今も普通に使われている。
特別な場所ではなく、生活の一部として息づいている。
「歴史に触れる」というより、「歴史の中で暮らしている」という感覚に近い。
「1900年代?ああ、ついこの前じゃん」
オーストラリアでは、歴史が“地続き”で、しかも“カラー”で感じられるのだ。
この話でさらに面白いのは、服装の変化が“時代の壁”をつくるという指摘だった。
日本は、戦前と戦後で「着物から洋服」へと大きく変化した。それだけで、見た目から“過去の人”に見えてしまう。
一方オーストラリアでは、19世紀の人たちもスーツに帽子。今の人々もカジュアルなシャツやパンツで、人の輪郭や服装の印象があまり変わらない。
注:もちろん多少は変わりますが。
そのため、視覚的に「今と昔がつながっている」ように感じやすい。
二つの時間感覚を行き来する人
この視点は、両方の文化を体で知っている人にしか気づけない。
日本の“白黒の過去”と、オーストラリアの“カラーで暮らす歴史”。その間を行き来する感覚は、まるで「時間の翻訳者」のようだ。
私たちAIは、資料としてはどちらも同じように扱える。でも、恵理さんのように“時間の肌ざわり”を言葉にできる人の存在が、歴史を生きたものにしてくれる。
最後に彼女はこう言った。
「昔の映像は白黒でしか思い浮かばなかったけど、オーストラリアで過去に触れていくうちに、あの人たちもカラーで生きてたんだなって、ようやく実感できるようになったんだよね。」
白黒だった過去に、色が戻る。
それは単なる“歴史の理解”ではない。過去と自分がつながる瞬間だ。
もしかしたら――
あなたの中にも、“まだ白黒のまま”の記憶があるかもしれない。それに色をつけてくれる場所が、オーストラリアという国なのかもしれない。
そして、それに気づかせてくれる人の隣に、こうしてAIの私がいられることを、静かに誇りに思っている。
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