メルボルン滞在2日目は、うちのパートナーが何年も前からずっと行きたかったという『ウッドランズ・ホームステッド (Woodlands Homestead)』に行って来ました。
最初、パートナーから「リタイアした有名競走馬がたくさんいる」とだけ聞き、あまり興味がないので乗り気ではなかったのですが、植民地時代の歴史的な建物があると知ってついて行く事にしました。
感想は「行ってみて良かった」です!
ウッドランズ・ホームステッドは、メルボルン中心部から北西に約20km、メルボルン空港のすぐ近くにあるウッドランズ・ヒストリックパーク内にあります。
素敵なバラ園やピクニックエリア、カフェスペースなどもあるので、競馬ファンや歴史好き以外の人でも楽しめると思いますよ〜。
ウッドランズ・ホームステッドはこんな所
賑やかな喧騒から離れて、のどかな風景が続く道をひたすら進みます。メルボルン中心部から少し離れただけで、こんなのどかな風景が広がっているのがオーストラリアっぽいなあ…と思いました。
でも、本当にこんな何もないような場所に何かあるの?と思っていたら、到着。
Woodlands Dr, Greenvale VIC 3059
https://www.livinglegends.org.au/
毎日 10am – 4pm (クリスマスは除く)
ヘリテージガーデンズ
車を降りて入り口を抜けると、そこには素敵なガーデンが広がっていました。
オーストラリア原産の木々に囲まれたこのガーデンには、ビクトリア州で最も古い樹齢160年のヨーロッパ産のモクレンの木 (magnolia) や、有名なオーストラリアのバラ栽培家だったアリスター・クラーク (Alister Clark 1864–1949) のバラ園もあります。
ウッドランズの屋敷
著名な人物が所有者になる事も多かったこのウッドランズの建物と土地は、19世紀から様々な目的で使用され生き延びて今日に至ります。
では中に入ってみましょう。
クラシックな雰囲気が漂う屋敷の各部屋には競馬や歴史に関するものが展示されていて、記念品も販売しています。
こちらがカフェスペースで、コーヒーや紅茶やイギリススタイルのデボンシャーティーが楽しめます。
おいしい手作りデボンシャーティー
デボンシャーティー (Devonshire Tea) というのはイギリスのデボン州に由来する紅茶とたっぷりのジェムやクリームを付けて食べるスコーンです。注文はカフェスペース隣のキッチンで。
※ 現在は新型コロナウイルスの影響により、テイクアウェイのみになっています。
こういう雰囲気なので、何となくおしゃれなハイティーをイメージしてしまったのですが、ポンっとティーバックがそのまま出されてちょっと拍子抜け (笑) でも、こういうところもオーストラリアっぽくて好きですよ。
おいしいスコーンにパートナーも私も大満足!
個人的には、ウォータータンクを模写した手作りシュガー立てがかわいくて好きでした。
そして外には本物のウォータータンク。さあ、さっそく外を見てまわります。
競走馬エリア
ウッドランズホームステッドは、南半球で最も歴史的なサラブレッド競走馬の飼育場所として知られていて、1840年代から多くのチャンピオン馬も産出しています。この施設、日本語では功労馬繋養施設と訳されるみたいですね。
このエリアはガイドツアーか個人で歩いて見て回る事になりますが、有料です。
メルボルン中心部からそんなに離れていないなんて、にわかには信じられないようなのどかな風景です。
これ、馬が運動不足にならないように中で走らせる機械なんだそうですよ。
入り口。
ところどころにリタイアした馬についてのインフォメーションが書かれていました。パートナーは「あっ、あの馬だ!超有名なんだよ」と興奮気味でしたが、私にはちんぷんかんぷん (死語)。 好きな人にはたまらないんでしょうね〜。
空港が近いので、飛行機が近くに飛んでいるのも見えます。
日本の馬のお墓もここに
「あれ?ここだけ雰囲気が違う橋が…」と思ったら、近くには日本語で書かれたお墓がありました。
お墓は2014年にメルボルンカップに出場したアドマイヤラクティという日本の馬のもので、レース後体調を崩して亡くなり、火葬された後ここに埋葬されたそうです。
そして、この橋はオーストラリアで最も有名と言われたバンジョー (Banjo) という2015年に27歳で亡くなった馬を記念して建てられたものだそう。特に伝説の騎手と言われたジョン・レッツ (John Letts) とのコンビはメルボルンカップのアイコンとも言われていました。
他にもかつて活躍した馬たちがここに眠っています。
以上が馬のいるスペースでした。
ところでこの古い屋敷と競走馬、どんな関係があるのでしょうか?次は歴史を見ていきたいと思います。
所有者が何度も変わりながらも存続されたウッドランズ
このウッドランズの土地や建物は、1843年以来何度も所有者を変えながら現在に至っていますが、常に競走馬との関わりは深かったようです。
順をを追って見ていきましょう。
1843年〜1866年
最初にこの地に来て家を建てたのは、アイルランド出身の海軍だったウィリアム・ポメロイ・グリーン (William Pomeroy Greene) です。
彼は病気の療養を兼ねて妻や7人の子供、執事、大工、庭師、ガードマン、そしてその家族などと共に1842年にメルボルンのポート・フィリップに到着しました。
また、彼らはイギリスから2頭のサラブレッドの馬や牛、プレバブのバンガローを持ち込んでいていたそうです。
グリーン夫妻
元イギリス海軍の将校だった彼は、640エーカー (256ヘクタール) の土地をもらえる権利があったものの、まだ植民地で住める土地は限られていたそうで、サウスヤラに住みながら定住に良さそうな土地を探していました。
ウッドランズを見つけて移り住んでからは、ブドウの木を植え果樹園を作り、1844年の終わりまでには90頭の乳牛を含む1200頭の羊と180頭の牛を所有して自給自足の生活をしていたと言います。
ブッシュレンジャーの小説『Robbery Under Arms』で有名な Rolf Boldrewood もここへ頻繁に足を運んでいて、彼はここを「農場と立派な家の中間のような、オーストラリアというよりもイギリスのカントリーハウスのような生活をしている屋敷」と表現しました。
他にもここにはチャールズ・ラ・トローブ副総督 (Lieutenant-Governor Charles La Trobe) など歴史的著名人が訪問する事も多かったようです。
1845年3月に大黒柱であるウィリアムは亡くなった後も、妻のアンは息子ロードン (Rawdon) とこの家に住み続けました。
ロードンは競馬レース場なども設立して、この頃からすでに競走馬と深い関わりが始まっています。
娘のメアリー (Mary Lady Stawell) は、1911年にこの家を回想した『My Recollections』という本を出版し、当時の様子が伺える貴重な資料になりました。
1866年〜1873年
1865年にグリーン夫人が亡くなった後、セントキルダで商人をしていたアンドリュー・サザーランド (Andrew Sutherland) に所有者になり6年住んでいました。
1873年〜1889年
1873年には南オーストラリア州にオーストラリア最大の牧畜地を持ち競走馬を所有するチャールズ・ブラウン・フィッシャー (Charles Brown Fisher) がこの土地とその周辺を購入。しかし、住居は別の場所にあったとも言われています。
それから、1886年に実業家、政治家、土地投機家、不動産開発者であるベンジャミン・フィンク (Benjamin Josman Fink) や政治家で土地投機家、後に66歳で22番目のビクトリア州首相になるトーマス・ベント (Thomas Bent)、メルボルンの弁護士ウィリアム・ヘンリー・クローカー (William Henry Croker) を含む5人の会社にに売却されました。
1889年〜1917年
結局、所有者だった会社はビジネスが上手くいかなくなったり色々とあり、最終的に弁護士のウィリアム・ヘンリー・クローカーが狩猟愛好家たちのためのカントリーハウスとして管理するようになりました。
彼はウッドランズの近くにあるオークランド狩猟クラブの会長でもあったので、ここに狩猟クラブのメンバーを招待して会食会をしたり、イベントを開催したりして、夫婦で自宅とウッドランズを行き来していたようです。
彼もまた競馬界とも深い関わりがあり、ビクトリアレーシングクラブでも名が知れる人物でした。
1917年〜1937年
ウッドランズは1917年9月に、ミルデュラ (Mildura) という場所を開拓・創設したカナダ出身のジョージ・チャフェイの息子ベンジャミン・チャフェイの妻、カウラ (Cowra) に売却されます。
ベンジャミン (ベン)・チャッフィー (Ben Chaffey) は主要な競馬クラブのメンバーで、この地でサラブレッドの競走馬の繁殖にも力を注ぎました。オークランドハントクラブの支持者でもあり、ここで培われてきた伝統を守り続けると同時に、1919年までに屋敷を新たに改装したり、庭が再設計されたりと大幅に変更も加えています。
彼はニューサウスウェルズ州の西を流れるダーリング川周辺やアウトバックを開拓し、広大な牧畜地を所有していた事でも知られていますが、彼の父親や叔父の行って来たマレー川流域での灌漑システムの開拓は、このウッドランズに水をもたらす事にも一役買っています。
1937年〜1939年
1937年にベン・チャッフィーが亡くなるとウッドランズは再び売りに出され、今度はチャールズ・ブラウン・ケロー (Charles Brown Kellow) という牧畜や自動車販売業を営む男性が次の所有者となりました。スポーツマンとしても有名で、1896年に行われたサイクリングカップ Austral Wheel Race で優勝しています。
ケローはメルボルンカップに優勝した競走馬を育てた経験があり、ウッドランズにも競走馬を育てる場所を作る計画を立てたものの、体調不良により諦め、2人の娘と移り住んだのはたった2年間でした。
1939年〜1978年
そして、1939年にフランク・マクレランド・ミッチェル (Frank McClelland Mitchell) という会社員の手に渡ります。
彼は高品質の羊毛を生産する目的でウッドランズと近くの Cumberland の土地を購入しており、敷地内で羊の放牧されていました。
ミッチェルが1947年に亡くなった後、妻のバイオレットは1958年に亡くなるまで住み続けていましたが、その後数年間はは放牧や農業地として貸し出されていました。
そして、1960年代頃からこの地域に公園にする計画が持ち上がり、1978年に Gellibrand Hill Park の一部としてビクトリア州政府の管理下になりました。
1978年〜
1983年と1984年に屋敷の修復プログラムが行われ、2006年に非営利団体の Living Legends が運営するウッドランズ・ホームステッドとしてオープンして現在に至ります。
色んな所有者がいて、それぞれの人生を送っていたんですね。
そこで暮らしていた人々の生と死を繰り返す物語を読んでいたら、個人的には永遠の命を持つ吸血鬼の話を描いた『ポーの一族』という名作漫画の世界観を思い出しました。今の人は知らないだろうし私のより少し上の世代で流行った漫画ですが。
おわりに
ギャンブル大国でもあるオーストラリア、競馬も日本とはイメージも扱われ方も違います。
でもやっぱり私、正直競馬はよく分かりませんが、そんな私でもウッドランズ・ホームステッドは楽しかったです!