世界遺産 オペラハウスを楽しもう!

世界遺産 オペラハウスを楽しもう!

オーストラリアと言えば、オペラハウス(Opera House)!

これを語らずしてオーストラリアの観光を語れるか!というくらい有名なオーストラリアのアイコン的存在ですよね。

2007年には世界遺産にも登録され、登録された中では世界で一番新しい建物として知られています。

そんなオペラハウスですが、いつ頃誰がどうやって建てたのか知ってますか?
これには結構有名な物語があるんです。

今日はそんなオペラハウスについて、あれこれ語ります!

全然違った写真とリアル

はっきり言って私、シドニーに来る前からオペラハウスの写真にウンザリしてました。

ワーキングホリデーの2年間のうち1年半をクイーンズランド州で過ごした私は、事あるごとにワーホリ仲間たちから見せられるオペラハウスの写真にちょっと飽きてたんです。

心の声「あ、あなたもまたオペラハウス?それもう何度も見たし〜。」

半年のビザを残す頃、ようやく私もニューサウスウェールズ州のシドニーまで南下するタイミングが来ました。

「ベタだけど、私もとりあえずシドニーに来た記念にオペラハウス見て写真を撮らなきゃな。」

何となくそう思いながら、特にオペラハウスに対して特別な想いも何もなくシドニー行きの長距離バスに乗り込みました。
私がバスの中で眠っている間に早朝のシドニーに着く予定。

はっと目覚めた時、外は少し明るくなり始めていていました。

ちょうどハーバーブリッジの上だったようで、真っ先に目に入って来た光景は窓の外のオペラハウス!

「あっ、ウワサのオペラハウス!! という事はもうシドニーに着いたんだ!」

この写真、オペラハウスは見えにくいですけど、シドニーの写真第1枚目!

一瞬とはいえ本物が見れて嬉しかったです。

偶然目が覚めた場所がオペラハウスの見えるハーバーブリッジの上なんて、ちょっと出来すぎていて笑ってしまいました。Welcome Sydney! って歓迎された気分でした。

近くで見るオペラハウス

シドニーを観光する人なら必ず行く場所がオペラハウスです。

ここまでは電車ならサーキュラー・キー駅(Circular Quay Station)で降りてすぐですし、シティからでも歩ける距離です。

Sydney Opera House
Bennelong Point, Sydney NSW 2000

https://www.sydneyoperahouse.com

遠くから見ると白いオペラハウスですが、近くから見ると実は白とクリーム色のタイルが使われています。

シドニー湾の濃い青と明るい空の青、それがオペラハウスの白のコントラストが映えるように、でも眩しすぎないように工夫がされているんです。

実はこれ、日本の陶器のお茶碗のザラザラした質感からヒントを得たんだそうですよ。

細かい石の入った粘土で作られたこだわりのタイルは、3年かけて屋根の曲線に合うように作られ、その数1,056,006個!

初めて見た時はそこまで知りませんでしたが、とにかく写真で見るのと本物は大違いと思いました。

一目見てオペラハウスが大好きになり、以来オペラハウスを見る度につい写真を撮ってしまいます。もう何十枚も持っているのにです。
私はオペラハウスを一種のパワースポットだと思っています。

オペラハウスが完成したのは1973年。
この完成に至るまでには、長い年月を要しました。

1958年に建設を始めてから様々な問題にぶつかりながらも、ようやく当初の予定から10年遅れて完成。
予算も700万ドルのはずが、最終的に14倍の1億200万ドルを費やした大プロジェクトとなりました。

オペラハウスを楽しむ

さて、オペラハウスの詳しい歴史については後で話すとして、オペラハウスでは見学ツアーなども開催されていて、日本語のツアーもありますのでオペラハウスの中に入ってみたい人には良いと思います!

コンサートホールにあるグランドオルガンは、機械式パイプオルガンとしては世界最大なんだそうですよ!

多分$25くらいで当日券もありますし、ツアー会社で申し込む事も出来ます。

けれども素敵なのは、やっぱり外から見た時の建物の景観!

オペラハウスの近くにはちょっと高めですがレストランもあり、オペラハウスを眺めながら優雅にワインを飲んだりも出来ます。

そしてその奥にあるおみやげ屋さんも小さいですが、おもしろいですよ。

おそらくここでしか買えないグッズもあり、以前はオペラハウスバービーちゃん、オペラハウスのLEGO、最近では(と言ってももう何年も経ってますが)オペラハウスのぬいぐるみまで登場したようです!

 

他にもオペラハウス型のライトや木製ブックエンドなど、オペラハウス好きには胸がキューンとするグッズが色々置いています。
もちろんオペラハウスで上演されたDVDやCD、グッズなどもあります。

すぐ隣のボタニックガーデンを歩けば、オペラハウスとハーバーブリッジを一緒に望める絶景ポイントもあってその景色はまるでポストカードのよう。

イベント

オペラハウスに関連するイベントとして有名なのが、今年で10年目を迎える光の祭典Vivid Sydney。今やものすごい人気を博しているイベントです。

毎年5月の終わりから6月の初めに開催され、今年2018年は5月25日から6月16日までです。

オペラハウスがカラフルにライトアップされ、その周辺も華やかになります。

でもそれ以前から、オペラハウスのライトアップは度々行われて来ました。
乳がんキャンペーンの時はピンクに、セントパトリックデーには緑に、赤は…何の日か忘れましたけど。

オペラを観よう!

オペラハウスというくらいなので、やっぱりオペラを観るのも良いですよね!
私も一度だけオペラを観に行った事があります。

アデレードの義理のお母さん(パートナーの義母。血は繋がってません)が、『蝶々夫人』は日本が舞台なので一緒に観に行かないかと声を掛けてくれたんです。

私のパートナーは、私が彼の家族と仲良くするのが嬉しいらしく、$200以上する私のチケット代を払ってくてラッキーでした!

ところでオペラってイタリア語で上演されるんです。
そして横に英語字幕が出ます。

私たちの席は少し舞台から近過ぎて舞台横の英語字幕が見えにくかったんですけど、事前にあらすじを読んでいたのでストーリーが分からなくなったりもせずに楽しめました!

主人公の蝶々夫人もアジア人ではなかったのですが、日本人っぽい仕草と演技力に圧倒されました。
すごく良かったです!

日本語は皆無でしたので、シドニーでオペラを観る時は、事前にあらすじを把握しておく事をお勧めします。

オペラハウスが出来るまで

オペラハウスの建設が始まったのは1957年。
その影にはニューサウスウェールズ州立音楽院の校長ユージン・グーセンス(Eugene Goossens)の努力がありました。

イギリスの作曲家で1947年にシドニーに移住して来た彼は、彼が今まで指揮者を務めていたアメリカの大ホールとまるで違うシドニーの不十分な施設(タウンホールなど)に対し、大型コンサートホールの必要性をずっと訴えて来たのです。

その甲斐あって数年後、その願いが現実味を帯びて来ます。

1952年にニューサウスウェールズ州の首相に就任したジョゼフ・ケイヒル(Joseph Cahill)はグーセンスの「人は階級や生い立ちに関係なく、良い音楽を楽しむ権利がある。」という信念に説得され、1956年に国際的なオペラハウスのデザインコンペティションを行いました。

応募に参加した国は28カ国にも及び、その233件から選ばれたのは、当時無名だった38歳のデンマークの建築家ヨーン・ウツソン(Jørn Utzon)のデザインでした。

彼はコペンハーゲンのヘレーベーク(Hellebæk)にある小さな事務所で描いた12枚のデザインを〆切ギリギリに応募しており、しかも簡単なラフ画だった為に本当は第一選考で落とされていました。

しかし、審査員として選考開始から10日遅れて来たアメリカの建築家エーロ・サーリネン(Eero Saarinen)は、選考に落ちたウツソンのデザインを拾い上げて「これが優勝に決まっている!」と叫び、絶賛した事が決定的になったと言われています。

※ウツソンのデザインはこちらで見る事が出来ます。
https://www.records.nsw.gov.au

1957年、こうしてウツソンはシドニーで建設の指揮をとる事になるのですが、色々と問題がありました。

現在のオペラハウスがあるベネロングポイントには当時は電車車庫があり、取り壊した際に初めて地質調査が行われたのですが、考えられていたほど丈夫な土地ではなかった事が判明したのです。
まずは基礎工事に予算と時間を注ぎ込まなければなりませんでした。

そして、曲線を描く屋根の細かい設計をしていなかったウツソンは、このヨットの帆や貝殻をイメージさせる複雑なデザインを実現化させる為に、風による耐久性や曲線の部分の重さなどの綿密な設計を試行錯誤する必要がありました。

ケイヒル首相はこのプロジェクトが官僚や政治的反対によって中止にならないように建設をせかしましたが、悪天候や工事契約の変更などとも重なり、当初の予定していた段階を大幅に遅れたそうです。

建設が始まってから7カ月後、オペラハウスの建設を必ず完成させるように言い残してケイヒル首相は68歳で亡くなりました。

以下の言葉はケイヒル首相が議会で言った言葉です。

“In a young country like ours we ought to be courageous”
「私たちの国ような若い国は、勇気がなければいけないのです。」

ニューサウスウェールズ州 29代目首相 ジョゼフ・ケイヒル

建設計画はStage 1〜3に分けられており、1で台壁、2で外壁や屋根、3が内装工事の予定でしたが、Stage1が終わった時点で 既に当初の予定より2年遅れており、建設が始まってからほぼ5年の月日が流れていました。

その時点でもまだ曲線を描く屋根の試行錯誤が続けられており、最初のデザインでは建設構造上、実現不可能な事が判明。様々な案の練り直しを迫られました。

あの特徴的な屋根を造る為の解決策を思いついた時の逸話がいくつか残っています。

その最も有名な話が、オレンジの皮を剥きながらアイデアを得たという話。
それは以前、建築家エーロ・サーリネンが朝食の時にグレープフルーツを切って自分の建築物を説明していた事に由来するのでは、とも言われています。

そして球体からヒントも得て、現在の特徴的な屋根の形の原型が出来ました。
問題は解決され、ついに1963年にStage2に入ります。

スウェーデン製の特注タイルを使い、3年かけて少しずつ形作られて行くオペラハウス。

しかし、その頃からだんだんと政府との折り合いが悪くなり、当初の予定より大幅に上回る工事費用に懸念を抱いた政府はそれを指摘していました。

そして24年間続いた労働党の首相が変わり、1965年に自由党のロバート・アスキン(Robert Askin)がニューサウスウェールズ州の首相に就任してから、政府との関係はますます暗転して行きます。

公共事業事業省のデイヴィス・ヒューズ(Davis Hughes)はオペラハウスの資金を集める為のキャンペーンを行い資金を集め、プロジェクトの権限を持つようになると、ウツソンに今後は図面の制作費のみしか支払えないと言い渡しました。

しかし、Stage 3の試作を作る為にまだまだ資金が必要だったウツソンは、図面を作る事が出来ず、図面が出来なければ支払いが止められる状況に陥りました。

1966年2月、Bridge Streetにある閣僚事務所でウツソンはヒューズと話し合いを試みましたが、話し合いには至らずわずか15分で終了。

結局ウツソンはプロジェクトの辞任に追い込まれましたが、この事で世間は政府に対して激しい抗議の声を上げました。

世界中の著名なアーティスト、デザイナー、知識人から抗議の手紙があり、3月3にはウツソンの復帰を要求する1000人もの人のデモ行進があり、3000人もの署名がアスキン首相に送付されました。

そんな騒ぎの間も、黙々と続けられるオペラハウスの建設。

ヒューズはウツソンに妥協策を提案し残ってもらおうとしましたがウツソンは断り、建設当初から一緒にやって来た技術コンサルタント会社Arupの昔のパートナーJack Zunzに嘆願されても、現場には戻りませんでした。

こうしてウツソンは1966年4月28日、家族と共にデンマークへ戻り、シドニーに再び帰って来ることはなかったのです。

ウツソンが去った後も続いていたStage2の残りの作業と内装は、ヒューズに任命されたピーター・ホール(Peter Hall)ら複数の建築家で完成させる事となります。

現場に入ったホールはウツソンの計画していたスケールの大きさを実感し、圧倒されたと言います。

様々な理由によりウツソンが予定していた舗装材の素材やガラス壁の建設方法、間取りやインテリアなど大幅に変更された箇所もありつつ、1973年10月20日、ついに20世紀の傑作オペラハウスはオーストラリアの新しいアイコンとして開館を果たしました。

しかし建築家ウツソンに声が掛かる事はなかったのです。

ウツソンの無念さはどれほどだったのでしょうか。
これでもうウツソンのオペラハウスは永遠に完成する事はないと肩を落とした人たちもいたようです。

現在オペラハウスは多くの観光客で賑わい、6つの劇場では年間2000以上のオペラやバレエなどの様々なパフォーマンスが上演されています。

2000年のシドニーオリンピックでは聖火リレーの舞台となり、オーストラリアには欠かせないアイコンとなりました。

1940年代の終わりにオペラハウスの必要性を唱えたユージン・グーセンスと、建設の完成を願ったジョセフ・ケイヒルの想いはしっかりと身を結び、今でも受け継がれているのです。

その後…

何とも後味の悪い残念な話でしたが、実はこの話には続きがあります。

1999年、ウツソンは今後のオペラハウス変更のガイドラインを担当する事に合意し、ウツソンの再設計にるオペラハウスのデザインが実現したのです。

2004年9月、ウツソンがデザインしたシドニー湾を見下ろす部屋は “Utzon Room” と称され完成。西側に並木道を作ったり、入り口のインテリアをデザインし直し、2006年に無事このプロジェクトが終了しました。

高齢のためシドニーの地を踏む事はついにありませんでしたが「この喜びと満足感は、建築家にとって最高の幸せで、それは今まで手に入れたどんなメダルにも匹敵する。」と語っています。

2003年にはオーストラリア勲章を授与され、建築家の最高栄誉であるプリツカー賞も受賞しています。

ひとまずハッピーエンド、ですよね。

豆知識

ちなみに、当時のニューサウスウェールズ州首相だったジョゼフ・ケイヒルは、オペラハウスをシドニー中心部のウィンヤード駅近くに建てる予定だったそうです。

それに反対し現在の位置にこだわったのは、オペラハウスの必要性を訴えてきたユージン・グーセンス。
もしウィンヤードに建ってたら、全然別の建物になったかもしれないですよね。デザインも違っててあんなに有名になったかどうかも分かりませんよね。

もともとあの場所はアボリジニが暮らしていた場所で、Gadigal族の言葉で “Tubowgule” と呼ばれ、海水と淡水の交わる場所という意味でした。

そしてウツソン帰国後に建設続行を任命されたひとり、ピーター・ホールもオペラハウス建設にあたってかなりの苦悩があったようで、そんな内容のサイトも見つけましたので、英語ですが載せておきます。
http://www.abc.net.au

あと、すごく余談ですが1968から1970に放映されたテレビドラマ『Skippy the Bush Kangaroo(邦題 カンガルー・スキッピー)』は、シドニーを舞台にしたカンガルーと男の子のアドベンチャー物語ですが、ドラマの中でバックにちらっと建設中のオペラハウスが写ってる事があるんですよ!

何故か時々深夜に放送しているので、私はよく観てます(笑)

おわりに

あのオペラハウスが出来るまでに本当に色んな事がありましたよね。
やっぱり私にとってオペラハウスはパワースポットです。


そしてこのオペラハウス記事も長かった!

考えてみればブログ記事制作も3段階のステージが あります。

1. だいたいの土台作り
2. ぴったり来る写真探し
3. 全体の仕上げ

あはは、今夜オペラハウスが夢に出そう〜!