シドニーには近代的なビルも多いですが、オーストラリアで最初の西洋人の町というだけあり、19世紀頃の古い建物もたくさん残っています。
メインストリートから少し離れたマッコーリストリート (Macquarie Street) にも、そんな面影が強く残る建物が多く残されていて、旧造幣局 (The Mint) もそのひとつです。
この建物は現在も使用されていて、建物の歴史にまつわる展示物、レストランや売店、シドニーの歴史博物館を管理するリビングミュージアムズの本部、オフィス、会議室などのレンタルスペース、図書館などがあります。
一見、普通のオフィスという感じではありますが、シドニーの発展において重要な建物だった歴史もあるので、知っておくとシドニーがもっと楽しめるかもしれませんよ!
無料で入れる旧造幣局
現在のマッコーリストリート
旧造幣局 (The Mint) は、ハイドパーク (Hyde Park) の北側から始まるマッコーリストリートを真っ直ぐ歩いて行くとあります。
位置的にはハイドパークバラックス博物館 (Hyde Park Barracks Museum) とシドニー病院 (Sydney Hospital) の間です。
こちらが1816年に建てられた旧造幣局です。現在は旧造幣局と呼ばれていますが硬貨を製造していたのは1855年〜1926年で、もともと最初は病院でした。
10 Macquarie St, Sydney NSW 2000
https://sydneylivingmuseums.com.au/the-mint
月〜金 9.30 – 5pm 入場無料
南側の入り口を入ったらすぐ、この建物を建設したマッコーリ総督の銅像があります。
マッコーリ総督の業績
1810年〜1821年までニューサウスウェールズ5代目総督だったラクラン・マッコーリ (Lachlan Macquuaie 1762 – 1824) は、当時治安が悪く荒れていたシドニーを整備しインフラを整え、それなりにきちんとシドニーを港町として発展さた事で知られています。この建物があるマッコーリストリートも、彼によって建設されたものです。
病院建設は彼が総督として一番最初に手掛けた大きな仕事でもあり、マッコーリ総督が商人と交渉してラム酒の独占販売を許可する代わりに得た資金で建設された病院だったので「ラム病院」と呼ばれていました。
隣のハイドパークバラックスもマッコーリ総督が囚人宿舎として建設させた建物で、現在は博物館になっています。2010年7月にオーストラリアの囚人遺跡群 (Australian Convict Sites) のひとつとしてユネスコ世界文化遺産に登録されました。
シドニーサイダー憩いの場であるハイドパークもマッコーリ総督が競馬場としてつくったもので、北口にも彼の銅像があります。こんな風に、彼の名前はあちこちに残っています。
という事で、この記事の前半では旧造幣局の建物を、後半では建物にまつわる歴史を紹介します。必要なら目次も利用してくださいね。
では、まずは中の様子を見てみましょう。
建物内の見学
建物は手前と奥に分かれていて、真ん中は中庭になっています。
この付近のオフィスで働いていると思われるような人たちが数人ベンチでくつろいでいて、歴史的建造物敷地内という事を忘れるくらいごく日常的に使われている建物なのだというのを感じました。
奥の建物
建物の奥にはシドニーの歴史的建造物を管理する “シドニーリビングミュージアムズ” の本部オフィスがあります。
オフィスでは地図や説明 (英語) などが書いてあるパンフレットをもらえたので、あればもらった方が良いかもしれません。
こんな感じで建物は手前と奥に分かれていて、2階もあります。
余談ですが、このシドニーリビングミュージアムはシドニー12カ所の博物館や歴史的建造物をお得に回れる “シドニーミュージアムパス” という1カ月有効パスも発行しているので、シドニーの歴史に興味ある人は利用してみてください。
オフィスの手前には Caroline Simpson Library & Research Collection という図書館があり、オーストラリアの建物、インテリア、家具、庭園などの歴史のコレクションが所蔵されていています。
月〜金 10am – 4.30pm ※ 入場無料
この建物は、かつて硬貨を製造する工場があった場所なんだそうで、通路には当時の様子を説明したパネルが展示されていました。
手前の建物
正面のレストランが入っている手前の建物は、ゴールドラッシュの時代 (1851年〜) に造幣の為の発掘された金塊を受け取るオフィスがあった場所で、そこも少しだけ展示スペースになっています。展示スペースの横には現代風な会議室が窓越しに見えました。
そして入り口側に回ると階段があります。
一応観光客用にコインを入れてハンドルを回すとメダルが出る機械が置いてあるのを見て、それまで何となくオフィス的雰囲気だったのでちょっとホッとした気分になりました。
横の売店にはお花やちょっとした雑貨が販売されていて、ここでコーヒーも買えます。
外でお茶する人も結構いました
上の階はレストラン
階段を上がると、クラシックな雰囲気が漂う No. 10 Bistro というレストランがあります。
ここにもちょっとだけですが展示物がありました。
建物の歴史
さて、ここからはこの建物の歴史を見ていきましょう。
まずはこの建物が建てられた経緯ですが、それは現在オーストラリアデイにも制定されている、1788年にイギリスの第1艦隊がポートジャクソン (現在のロックス) に到着し入植が始まった日に遡ります。
航海を生き延びた736人の囚人の中には赤痢、天然痘、壊血病、腸チフスなどで苦しんでいた人たちも少なくありませんでした。
そこで初代総督フィリップ・アーサーは、現在のロックスのジョージストリートにテントを建てて病院にしていたのです。そのテントは “Sick Tent” と呼ばれ、医師ジョン・ホワイト (John White) が担当していました。
1790年にはイギリスから第2艦隊が持ち込んだ木と銅のプレハブ小屋 (Portable canvas building) に建て替えられていたものの、1810年にシドニーに到着したラクラン・マッコーリ総督は、現状を見て囚人たちの新しい病院を作る必要性を感じました。
最初にロックスにあった病院は新しく病院が出来た時に壊され、その跡地には1882年に警察署が建てられました。現在はモダンアジアンのレストラン『Sergeant Lok』になっていて、独房が個室の食事スペースに改造されています。
1811年〜1854年 ラム病院建設
マッコーリ総督は、さっそく政治の中心部の西側に病院建設計画を立て、アクセスしやすいようにマッコーリストリートを建設。しかし、イギリス政府からは病院を建てるための資金提供を拒否されてしまいました。
そこで彼は、2人商人 Alexander Riley と Garnham Blaxcell と交渉して、彼らに当時貨幣の代わりに相当するラム酒 (蒸留酒) の独占輸入を3年間許可する代わりに、その見込み利益と引き換えに病院を建設。病院は外科医の D’Arcy Wentworth が院長を務めています。
独占輸入したラム酒は45,000ガロン (170343.53 リットル) に及んだそうで、この病院はラム病院 (Rum Hospital) と呼ばれるようになりました。
そして実は、現在旧造幣局となっている建物は、この時3棟建てられたうちの南側の棟です。現在は中央の病棟は建て替えられて残っていませんが、北側の棟は国会議事堂として使用されています。
建設当時は病院の北棟だった国会議事堂
1811年〜1816年に建設されたこの病院は、中央は200人収容出来る病棟、北側は主な外科医の部屋、南側はアシスタントの外科医の部屋がある棟の3棟で構成されていました。
しかし、この病院は構造に問題があり、わずか数年後には修理を余儀なくされるほどで、次第に囚人たちは換気の悪さと人の密集度の高さからここを “シドニーの虐殺部屋 (Sidney Slaughter House)” と呼ぶようになっていきます。
にも関わらず、公共の建物が不足していた1820年代には場所の便利さもあり、この建物は様々な用途で使われるようになりました。
中央病棟の一部と北側の棟は法廷や役所として、南側の棟は1823年に軍の病院として、1842年には囚人ではない貧しい移民の人々の診療所として使用されています。
1854年〜1926年 ゴールドラッシュで造幣局へ
そんな折、1851年にニューサウスウェールズのバサーストで金塊が発見され、国内外の多くの人々が金の採掘をしに集まって来たゴールドラッシュが始まります。
バサースにある巨大な “金を探す人” のモニュメント
金塊の発見により植民地に大量の金塊が出回るようになったので、当時はまだイギリス硬貨が使われていたオーストラリアにもロンドンの海外支部という形で造幣局を設立する必要が出て来ました。
こうして1853年に病院の南側の棟がその場所に選ばれて改装工事が始まりました。イングランドで製造されたプレハブの鉄フレームは、一度分解して船で運び、シドニーで組み立て直され使用しています。
そして1855年に造幣局がオープン。正面の建物に金塊を受け取るオフィス、奥の新しく建てられた建物に金を硬貨に加工する工場があり、毎日のように鉱山から金塊、砂金、金の含んだ鉱物などが、個人や護送によってここに持ち込まれました。
造幣は当時の最先端技術だった蒸気エンジンを使って行われ、およそ1億5千枚の硬貨がここで造幣されたそうです。
ちなみに、病院は旧造幣局のすぐ近くにある現在のシドニー病院に移動しています。ここは今でも普通に使用されていて、私も昔お世話になりました。病院前にある鼻をさすりながら願い事をすると願いが叶うと言われているブロンズのイノシシの銅像、ポルチェッリーノ二世 (Il Porcellino) もここにあります。
オーストラリアで発明された技術
そして、ここで発明も生まれました。
造幣局には科学研究室も設けられていたのですが、Francis Bowyer Miller は塩素ガスで金を精製する方法を開発、その技術は今日でも世界の造幣局で使われています。
金塊をめぐる事件
ここで金塊をめぐって事件も起こりました。
1869年12月28日に、アンドリュー・ジョージ・スコット (Andrew George Scott) がこの造幣局で129オンス (3.6kg)の金塊を£503 (数十万ドル) と交換。
しかし、後にその金塊はビクトリアのマウントイーガートン (Mount Egerton) の鉱山がある町の銀行から盗んだ物だと発覚。実は彼は、キャプテンムーンライト (Captain Moonlite) として知られていたブッシュレンジャー (盗賊) だったのです。
盗みを繰り返していた彼ですが、最終的にダーリングハーストにあった牢獄で絞首刑となりました。
1901年にオーストラリアはイギリスの植民地から連邦国家として独立しましたが、1920年代に入るとかつて勢いのあったシドニーの造幣局はメルボルンやパースにも新たに造幣局が出来た事もあり大した利益が出ず、機械も時代遅れとなりました。
時代の波を受けたシドニーの造幣局は、1926年に閉鎖されています。それからこの建物の解体の危機は何度かあり、1909年には王立委員会 (Royal commission) の町の景観美化計画として取り壊しの話が出ています。
1926年〜1997年 取り壊しの危機
1926年に造幣局が閉鎖されてからは、小分けされた事務所として政府の保険事務所や住宅管理所、土地税務署、シドニー地方裁判所、教育機関などに使用されていたのですが、1938年のオーストラリア入植150周年記念の際に再びマッコーリストリートの開発計画の話が上がり、建物は壊される予定でした。
しかし1939年の第二次世界大戦の勃発でその話は消え、再び同様の提案が検討されたのは1960年代になってからです。その頃になるとシドニーの歴史的建造物の保存を主張する人たちが現れ、取り壊し反対のキャンペーンが行われました。
1975年にニューサウスウェールズ州政府は建物存続の方向で修復作業を行い、1977年にはニューサウスウェールズ州遺産法 (NSW Heritage Act) が導入され、それに基づき旧造幣局の建物は永久的に保存される事となりました。
1997年〜 文化遺産として再開発
こうして今日20世紀に何度も解体の危機に見舞わられた旧造幣局の建物は、当時の面影を残しつつ現代の建築と注意深く融合され活用されているのは、最初に紹介した通りです。
1980年〜1984年には、ニューサウスウェールズ州にとって初めての公的資金による発掘作業を実地。そして、1984年に旧造幣局は博物館としてオープンしています。(私の記憶では2012年頃は有料博物館でした。)
2004年に1980年に設立された政府の運営するヒストリックハウストラスト (The Historic Houses Trust of NSW) の本部が置かれ、2013年からはシドニーリビングミュージアム (Sydney Living Museums) として運営され、今に至ります。
おわりに
ここでは、あくまでも観光がもっと楽しくなるために歴史を紹介しているので、時間があればマッコーリストリートを歩いてみてください。
ハイドパークバラックス、旧造幣局、シドニー病院、国会議事堂、ニューサウスウェールズ州立図書館と、王立植物園 (ボタニックガーデン) まで続いています。
オーストラリアで一番古い病院、オーストラリアで一番古い町、オーストラリアで一番古い時計、オーストラリアで一番古い公園などを意識して見ると、今まで何でもなかった場所が急に意味のある場所に見えて来るかもしれませんよ。